国の言い分「ルールに従った」だけではなぜダメか

問題は水量調整の適否ではなく、放流の決定プロセスと情報伝達のやり方だ。

まず利害関係がぶつかる当事者に、その判断を委ねることは難しい。それぞれが自分の利益を守ることに必死になるので全体の視点からの総合判断ができなくなるからだ。しかし逆に、自分の利害から遠すぎる者が判断するのも相応しいとは言えない。というのは、「他人事」として無責任になるきらいがある。自分事として必死になり過ぎてもいけないし、他人事として無責任にもなってはいけない。この間の絶妙なポジションにある者が、利害がぶつかることについて総合判断をするのに相応しい。

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野村ダムや鹿野川ダムの日常管理を国の職員がやることには問題がないだろう。しかし下流域の住民に被害が出るかもしれない緊急放流という究極の判断のときには、責任を負うべき者が決定をすべきである。野村ダムや鹿野川ダムの緊急放流で責任を負う者は、利益がぶつかり合う西予市、大洲市でもなく、そして住民から遠すぎる国でもない。国よりも住民に近い愛媛県こそが責任を持ち、そして決定権を持つべきである。

これが地方分権論の根幹だ。

そして緊急放流などの危険情報を住民へ伝達するのに一番相応しいのは、住民に最も近い市町村である。

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ところが法律上、ダムの放流情報に関しては、ダムの管理者が住民へ伝達する義務を負っている。国が管理するダムでは国が、県が管理するダムでは県が住民への周知義務を負う。

この法律の規定によって、国が管理する愛媛県の野村ダムや鹿野川ダムでは、国が住民への周知義務を負っていたので、国は西予市役所や大洲市役所に伝達し、下流のスピーカーで住民に情報を流したらしい。しかし住民は緊急放流の周知が不十分だったと抗議している。

国はいつもの役所の主張のとおり、ルールに従った、の一点張りだ。ルールに従っていても、住民にきちんと伝わらなければ意味がない。国の職員はダムの管理技術に長けているのかもしれないが、住民への周知ノウハウを持っているわけではない。住民への周知ノウハウは市町村が持っている。

逆に、広島県管理の椋梨ダムの場合には、浸水地域の三原市がダムの大規模放流の事実を知っていたにもかかわらず、法律上その周知義務は県にあり三原市にはないという認識の下で、三原市は住民に周知しなかった。そして県の住民周知も十分なものではなかった。

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ここで議論をまとめておこう。まずダム管理の権限と責任について。現在は国管理となっている野村ダムと鹿野川ダムは愛媛県管理とすべきである。日常の管理は国がやるとしても、緊急放流等の究極の判断は愛媛県がやるべきである。

緊急放流等の住民への周知義務は、市町村が負うべきである。ダム管理の権限と責任が国や県であっても、住民への周知義務は必ず市町村が負うべきである。

そして緊急放流の権限・責任と住民周知の義務・責任が異なる時にこそ、合同での意思決定会議を開くべきだ。これが真の災害対策本部である。

国や地方自治体で開かれる災害対策本部は儀式的になっているところが多々ある。災害対策本部で、首相や知事、市町村長が、「人命救助第一で活動するように」なんて当たり前のことだけを指示することが多いが、そんなことは言われなくても皆、分かっている。