パンダの「ポルノ」も問題になった

その後のパンダ・ブームはすさまじい。来日から5年後の1977年、上野動物園は開園95年を迎えたが、毎日3万人がパンダを観覧した。5年間でのべ5000万人の来客があったと推定され、日本人の2人に1人が見たことになる。さらに、地元の台東区住民によって「パンダ愛護の会」という日中友好団体が設立され、新聞にはパンダを怪獣に仕立てた『快傑ライオン丸』を批判する投書が掲載された。

1975年にはパンダのポルノも問題になった。コロムビア映画配給の『アニマル・ラブ』は約300種の動物の性交シーンを集めた作品だが、途中から、上野動物園のカンカンとランランのシーンが追加されたのだ。上野動物園が撮影した動画が無断で流用されたことも問題であったが、「子供の夢を壊すな」という論調で批判された。現在の感覚では、パンダの性交を隠すことが子供の夢を守ることには特につながらないようにも思えるが、当時、パンダは文字通りのアイドルだったのである。

1979年、ランランが急性腎不全で危篤になると都知事が見舞いに訪れた。亡くなった時には、各新聞が1面で取り上げ、テレビのリポーターは涙ながらにその死を伝えた。ランランが実は妊娠していたことが悲しみに拍車をかけ、生命の尊さまでがランランに託して語られたのである。

『パンダと覚せい剤』というノンフィクション

1982年には、さくら隆『パンダと覚せい剤』(共栄書房)というノンフィクションが出版されている。パンダの覚醒剤使用疑惑を論じた本ではない。帯には次のようにある。

パンダブームで一番儲かるはずの男竜二はその時覚せい剤に溺れていた…
(中略)
あなたの身辺に忍び寄る覚せい剤の恐怖!
中毒患者は50万人以上、弱年層にも浸透!
トルコ嬢との悲恋、暴力団の暗躍、悪徳警官の陰謀が織りなす暗黒社会の実態を、その泥沼から這い上がりパンダ焼きで更生した中毒患者が覚せい剤悲劇を根絶すべく執筆の異色作
さくら隆著『パンダと覚せい剤』(共栄書房)

覚醒剤取引を中心に、当時の上野界隈の裏社会を当事者目線で書いた作品だ。著者は、明治から上野の山で茶店を営む家に生まれたが、大学生の頃、暴力団と関わるようになり、覚醒剤の使用と売買に手を出すようになってしまう。恋人の自殺、後遺症などに苦しみながら、最終的にはパンダ・ブームに乗って店を立て直して更生する話だ。1980年のホアンホアン来日がもたらした当時のパンダ・ブームは、裏社会の人間にまで影響する政治経済的な現象だったのだ。よく考えるとパンダと覚醒剤は直接的には関係ないのだが、それにしても強烈なタイトルである。

上野の山は、江戸から東京へという近代化の震源地であり、聖地破壊が徹底的に行われた場所である。そして、上野動物園は古い徳川体制の終焉を印象づけるように拡張してきた。その意味では、繁殖育成の難しい希少種、つまり近代科学によってはじめて飼育が可能になるパンダが上野にいることは、歴史的必然なのかもしれない。

岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授 1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。
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