毎年100万人近くを集め、テレビ東京が生中継を放送する「隅田川花火大会」。ほかにこのような花火大会はない。なぜ隅田川花火大会だけが特別なのか。宗教社会学者の岡本亮輔氏は、「200年以上前から続いてきたのは、花火大会が飢饉や火災、戦争などの死者を慰めるものだったから。別格となったのには歴史的な背景がある」と指摘する――。
2015年の隅田川花火大会で、ビルの間から花火を見上げる人たち(写真=時事通信フォト)

もともとは「両国花火」だった

例年7月下旬に行われる東京都台東区の隅田川花火大会。毎年100万人近くが集まる一大イベントだ。19時の打ち上げ開始に先駆け、夕方から付近の道路は規制され、東京メトロ銀座線や都営浅草線は大混雑になる。浅草ビューホテル、両国ビューホテル、第一ホテル両国といった川沿いのホテルでは、花火大会のための特別プランも提供される。川沿いには、今年も大勢の観覧客が詰めかけるだろう。隅田川花火大会は、今では本格的な夏を告げるイベントだが、時代とともに花火の意味合いは変化してきた。

隅田川花火大会はもともと、「両国花火」と呼ばれていた。隅田川のもう少し下流で行われていたのである。今では相撲のイメージが強い両国は、江戸最大の繁華街だった。両国という名は、この場所が武蔵国と下総国の国境に位置したことに由来する。江戸時代の地理感覚では橋を渡ればそこは別の国であった。こうした境界的・周縁的な場所だからこそ、軽業・占い・物まねといった見世物や物売りが両国に集まったのである。

無縁仏をとむらうための両国「回向院」

両国を語る上で外せないのが、回向院(えこういん)の存在だ。同寺が作られたきっかけは、明暦の大火(1657年)である。江戸市中の半分以上が焼け、10万人を超える死者が出たといわれている。死者の中には身元不明の者、身寄りがなく引き取り手のない者が数多く含まれていた。

こうした無縁の人々をとむらうために、万人塚を築くよう4代将軍・家綱が命じたのが回向院の始まりである。正式名称は諸宗山無縁寺回向院だ。宗派とは無関係に、社会の中で安定した居場所と死に場所を確保できなかった人々の霊を鎮めるための寺といえるだろう。

回向院の敷地に入ってゆくと、7メートルはある巨大な「力塚」が最初に目につく。1768年以降、回向院で「勧進相撲(かんじんすもう)」が行われたことにちなむものだ。勧進相撲とは、公共事業の寄付金集めなどを目的に行われた興行を指す。1833年からは回向院が春秋2回の定場所となった。先述の通り、両国には境界性・周縁性があったからこそ、力士という異形の人々の場所になったといえる。