関東大震災の翌年、新聞記者として東京を取材した作家・夢野久作は、両国の異界性を敏感に書きとめている(『街頭から見た新東京の裏面』)。

昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦にした被服廠――。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
その岸に立つ回向院――。
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力や菊……扨(さて)は又、歌沢の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳山の雪見船、吉原通いの猪牙船……群れ飛ぶ都鳥……。
両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。

両国は相撲と墨堤の桜を楽しむ行楽の場ではなく、回向院を核として、大都市・江戸東京の裏面を引き受けてきた場所だったのだ。

両国花火の起源も、1733年に行われた川施餓鬼だとされている。前年、江戸ではコレラが流行し、関西は飢饉に襲われた。その大量の死者たちを慰めるために、花火が用いられたのである。

「国威発揚」に活用された明治時代

花火大会は、鎮魂・慰霊の側面と、イベントの側面を同時に持ち合わせていくようになる。1870年代、現在の靖国神社である東京招魂社への参拝者は多くなかった。そこで政府が人集めのテコ入れとして、競馬や相撲とともに花火大会を催した。花火は招魂社の名物となり、大祭の時には花火見物のために立錐の余地もないほど参拝者が集まった。1877年11月には、西南戦争で亡くなった兵士のために臨時祭が行われた。この時には、遺族には花火見物のために桟敷席が用意された。

そして明治になるとさらに花火の意味合いは徐々に変化し、国威発揚や顕彰にも用いられるようになる。天皇が行幸から東京に戻る時には、たびたび花火が打ち上げられた。また、天皇主催で各国の外交官などを浜離宮に招いた宴席などでも、余興として花火が使われたのである。鉄道や橋の開通、皇族外遊の見送りでも、花火が打ち上げられた。慰霊というよりも、景気づけとしての性格が強くなり、徐々に軍や戦争と結びついてゆく。