1904年7月、それまで日露戦争の影響で不景気だった老舗花火師・鍵屋に注文が殺到する。日露戦争の勝敗を握ると思われた旅順攻囲戦における、日本軍の有利が伝わったためだ。各地から陥落後の祝勝用の花火の注文が殺到した。特に陸軍からの注文は大口で、旅順が陥落した夜に行列を出し、皇居前で3色に変化する鍵屋の特製花火数百発を打ち上げようというものだった。

この年は8月20日の隅田川の川開きに合わせて両国花火が催されたが、その10日ほど前に旅順でロシアの戦艦レトヴィザンに決定的被害を与えたことが報じられ、祝勝ムードによって空前の人出となったのである。

「非常時代空軍」から「輝く平和の曙」へ

1911年には、前年に南極探検に旅立った白瀬矗(のぶ)中尉の後援会によって、寄付金集めのための花火大会が開かれた。会場は芝浦の「ろせったホテル」だ。これは英国製の大型汽船をホテルに改装したもので、当時、最先端の海上ホテルであった。花火はホテルの横の埋め立て地から打ち上げられ、見物人は18000人にも及び、1人につき5銭の入場料が徴収された。

両国花火にも劣らぬ量と質の花火が打ち上げられたが、残念だったのはクライマックスの仕掛け花火だ。予定では、南極のペンギンと白瀬中尉をモチーフにした花火になるはずだったが、花火師が勘違いして、白瀬中尉ではなく、旅順攻囲戦の英雄・廣瀬中佐の花火を作ってしまっていたのだ。だが、見物人には大受けし、寄付集めは大成功した。

日中戦争前後から、時節柄しばらく両国花火は中止される。再開したのは、戦後1948年になってからだ。8月1日、両国花火組合主催・読売新聞社後援で11年ぶりに復活する。戦前、最後に行われた大会の仕掛け花火が「非常時代空軍」だったのに対し、この年は「輝く平和の曙」がクライマックスとなった。この夜には100万人が両国に押しかけ、招待席にはもちろん米軍将校たちが居並んでいた。