最先端のアミューズメント施設だった「浅草十二階」
2月9日、東京都台東区浅草2丁目の工事現場で「凌雲閣」の遺構が見つかり、話題になった。凌雲閣は、1890年に浅草に建てられた塔である。高さは約50メートルで当時としては日本一。東京有数の繁華街だった浅草に、満を持して登場した最先端のアミューズメント施設だった。「雲よりも高い」という名にも、その意気込みが感じられる。
今から考えれば、「浅草十二階」という通称通り12階しかなく、高さは50メートル程度と、それほど巨大なものではない。現代の東京であれば、どこにでもある高さだ。しかし当時は、駿河台の高台に建てられたニコライ堂(高さ約35メートル)が東京一の眺望を誇っており、人の手による建築として、凌雲閣は圧倒的な高さであったと言ってよいだろう。
浅草の歴史を振り返って見ると、浅草寺五重塔をはじめ、凌雲閣以外の塔も登場する。そして現代では、川向こうではあるが、対岸の押上に東京スカイツリーが建てられている。これはある種の必然だったかもしれない。浅草の塔の盛衰をたどると、近代的な文化と技術に支えられた繁華街であった浅草が、「江戸下町」の象徴となったプロセスが垣間見えてくるのだ。
なぜエッフェル塔はパリの象徴なのか
そもそも、塔とはなんなのだろうか。『塔の思想』(河出書房新社、1972)という異様にマニアックな本を書いたマグダ・レヴェツ・アレクサンダーによれば、塔は極めて異質な建築だ。なぜなら、塔は「内部空間の確保」という通常の建築の目的を放棄しているからだ。
たしかに、現実の多くの塔には巨大な内部空間がある。凌雲閣の内部には、故障がちではあったが日本最初のエレベーターが設置され、展望台へのぼる階段には美人芸妓たちの写真が飾られて人気投票が行われ、足元には演芸場もあった。
しかし、アレクサンダーによれば、塔の内部空間は上を目指した結果の「副産物」にすぎない。塔の目的は高さそのものだ。したがって、塔は一見実用的だが、実は「建築以前のもの」であり、非現実的かつ精神的な目標を持つというのである。
そして、塔の視覚性に注目したのが、フランスの哲学者ロラン・バルトである。バルトは、どこからでも見えるし、どこまでも見えてしまう塔を、能動性と受動性の双方を兼ね備えたもの、つまり「視線の両性を具有する完全物」として論じている(『エッフェル塔』ちくま学芸文庫、1997)。
いずれも格調高い議論だが、要するに、塔の最大の性質は高さがもたらす視覚的インパクトということだろう。塔はどこからでも見えるがゆえに、製作側にそのような意図がなくとも、その足元の街を象徴してしまうのだ。