浅草最初の塔は浅草寺五重塔だ。伝説では、平公雅(たいら・きんまさ)が建てたとされる。公雅は、将門の親戚だが、将門を鎮圧する側にまわった人物だ。その後、武蔵守に出世し、そのお礼として将門の乱で荒廃した浅草寺を復興し、942年、本堂・五重塔・雷門などを寄進した。これ以降、浅草寺は何度も火災にあうがその都度再建され、戦前は、徳川家光が寄進した本堂や五重塔が旧国宝に指定されていた。

写真右奥に五重塔が見える(著者撮影)

明治期には、外務省の火事を見るために群衆が五重塔に殺到し、その時だけ入場料が値上げされた。外務省までは直線距離にして、およそ7キロメートル。今ならば、目の前の浅草ROXにさえぎられて、何も見えないだろう。

五重塔は関東大震災でも倒れなかった

浅草寺の五重塔は重要な科学実験の対象にもなった。耐震実験だ。背景にあるのは、五重塔不倒神話である。浅草に限らず、五重塔は全国にあるが、地震で倒壊したという記録がないのである。

不倒神話の解明に先鞭をつけたのが、東京帝国大学地震学教授の大森房吉(1868~1923)だ。1921年、大森は論文「五重塔の振動に就きて」を発表する。法隆寺・東大寺・寛永寺・池上本門寺・日光・浅草寺にある五重塔で耐震実験を行い、その結果を報告したものだ。その中で大森は、浅草寺の五重塔には地震の揺れと同調する重りで振動を制御する構造があることを指摘したのである(河合直人「五重塔振動調査」2006)。

そして1923年、関東大震災が発生する。凌雲閣はこれによって上部が崩壊し、展望台にいた十数人の見物客が亡くなる惨劇となった。後日、凌雲閣は陸軍によって爆破解体された。一方、浅草寺五重塔は大震災にも見事に耐えた。ちなみに、大森は同年に亡くなっているが、死因は地震ではない。国際学会のために海外出張中で、大震災を経験すらせず、脳腫瘍で亡くなった。地震学者としては、無念だったかもしれない。