こうして、東照宮は至聖所であるにもかかわらず、動物園のアナウンスや喧噪に包まれるようになった。終戦直後は、動物園に住みかを奪われたホームレスが東照宮に集まり、境内でたき火をするようになってしまう。文化財保護という観点からも、東照宮は動物園に異議を申し立てた。だが動物園側は強気だった。返答は、「維持費不足で荒れ果てるより、東照宮ごと動物園に吸収され、文化財として保護されてはどうか」というものであった。

東照宮から見た五重塔(著者撮影)

実際、東照宮の五重塔は動物園に吸収されてしまう。1950年代、上野動物園は、戦争の打撃から回復し、種や動物数においても、1日4万人という入場者数においても、世界屈指の動物園になっていた。この時、五重塔の吸収案が持ち上がった。五重塔の周囲に和風庭園を造り、そこで鹿を放し飼いにして奈良の風景を再現しようというものだった。

結局、この構想は実現しなかったが、五重塔は動物園に奪われたままとなる。現在、東照宮側から五重塔を見上げても、樹木に邪魔されて下層は見えず、動物園内からしか全貌はうかがえない。

間違ってバカにされたレッサーパンダ

近代化のシンボルである上野動物園に初めてパンダがやってくるのは戦後である。戦前もパンダの存在はぼんやりとは知られていたようだ。ただ、特に戦時中は交戦国の動物ということでかわいく映らなかったとみえる。蒋介石が米国につがいのパンダを贈ったことを伝える「珍獣でご機嫌とり 見るも哀れな蒋夫妻の対米媚態」(読売新聞1941年11月12日朝刊)という記事では、次のように書かれている。

この熊猫とは文字通り熊とも猫ともつかぬ珍妙な獣で支那紙の説明によると、二頭とも全黒色の内に白の斑点があり、毛は密にして長く眼光は爛々として光を放ち、表情は極めて粗野、一見して狼か犬と思われるが四つの掌はさながら熊を思はせ、頭部の動作を見ていると猫のそれによく似ているという獣である

この記事にはパンダの写真も添えられているが、筆者が見る限り、おそらくレッサーパンダである。

本物のジャイアントパンダの来日は1972年10月のことだ。日中の国交回復に伴い、中国から動物大使として寄贈された。パンダ来日のニュースが報じられると、さっそく日本中の動物園が受け入れに手を挙げた。特に大阪は熱心で、天王寺動物園で受け入れるように働きかけた。だが結局、首相の裁断で上野動物園が落ち着き先に決められた。