しかし、徳川幕府の治世下、250年も王権の聖地であったからこそ、明治維新の時には、寛永寺は激しい破壊の対象となった。上野の山は、新政府軍と彰義隊が激突した上野戦争の舞台となり、この時の兵火で寛永寺の建物の多くが失われた。戦闘終了後、維新軍の兵士がわざわざ火をつけて回ったとも言われている。

寛永寺には物理的な破壊だけでなく、象徴的な破壊も加えられ続けた。1873年に公園制度が導入され、徳川聖地が狙い撃ちにされた。芝・増上寺、吉宗が整備した飛鳥山、徳川家祈願寺の浅草寺、寛永寺が公園とされた。そして、大衆に開かれた上野公園で、たびたび博覧会が催された。

1877年、第1回内国勧業博覧会が寛永寺の本坊跡で開催された。近代化の推進、言い換えれば江戸からの脱却を目的に、国内物産を集めて競争させ、産業振興を図ろうという催しだ。博覧会には天皇が臨席した。さらに日清日露の戦勝祝いも上野の山で行われ、そのたびに天皇の行幸があった。天皇が上野の山を訪れることで、支配者交代を印象づけたのである。

東照宮を削って広がった上野動物園

徳川聖地としての上野の山において、もっとも大切な場所の一つが東照宮だ。国と徳川家の守護神としての家康を祀った場所である。東照宮は、さいわい上野戦争でも大きな被害は受けなかった。関東大震災や東京大空襲もくぐり抜け、1651年に家光が改築した社殿が現存している。

しかし、寛永寺の至聖所というべき東照宮の敷地はそれほど広くない。なぜなら、1882年に開園した上野動物園に削り取られたからである。動物園は拡張のたびに東照宮側に敷地を広げた。近代化の象徴である上野の山に、近代科学の展示と教育を行う動物園が作られたのは当然だろう。さらに、その動物園が江戸の旧体制の象徴である東照宮を侵したのも当然かもしれない。