若き曹操の劣等感

三国志読者の中には、曹操のファンの方も多いでしょう。後漢の権力腐敗と、優柔不断な群雄を尻目に、果敢な行動力と孫子研究家としての鋭い軍略で勝ち進んだ英雄です。

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

曹操は155年生まれ。三国の英雄(曹操、劉備、孫権)の中では一番の年長です。宦官の家に父が養子となったことで、父が政府内で地位を得たことから、彼も若い頃から行政官として後漢に関わります。20歳から後漢内で役人の肩書きを得たことを手始めに、20代、30代を後漢帝国の行政官(かつ武将)として活躍します。(注:宦官とは去勢された男性で、皇帝の後宮で働いた者を指す)

「治世の能臣、乱世の奸雄」と彼が人相見から言われたことは有名ですが、実務に勝れながらも、型破りな発想と行動力があったことを示しています。のちに三国時代を牽引する英雄となる彼ですが、実は若い頃はいわゆる不良でした。

「太祖は若年より機智があり、権謀に富み、男立て気取りでかって放題、品行を整えることはしなかった。したがって世間には彼を評価する人は全然いなかった」(『正史三国志 魏書』より)(注:太祖とは魏を作った曹操を意味する)

彼の父である曹嵩(そうすう)は、慎ましく穏やかな性格として知られ、息子の曹操は父とは正反対の青春時代を過ごしたことになります。これは筆者の推定ですが、曹操は祖父が宦官であり、父が権力者の養子になって官位を得たことに、少しの反発と劣等感を持っていたのではないでしょうか。

その証拠に、のちに対峙する大軍閥のトップ袁紹(えんしょう)などと比べても、曹操はむしろ武人らしい果断な性格を誇り、人脈による出世を嫌うためか、孫子の兵法などの兵法研究に若い頃から傾倒していきます。

「奸」に文字は、よこしまなこと、してはいけないことをする、などの意味を持ちます。曹操は父の処世術で出世の糸口を得ながらも、自らの境遇に劣等感を感じていたのではないでしょうか。そのために彼は、既存の体制の枠を超えてやろうという静かな熱意に若年期から突き動かされていたと推測できるのです。