兵法書を好んで読みふけった青年時代
乱世の奸雄とは、世の中が乱れたときに、型破りな方法で英雄として活躍する者を意味します。古い伝統的な社会体制の中では、劣等感を感じずにはおれない立場だった若者が、社会の壁を乗り越えるような、立志伝中の人物になることは歴史上よく起こります。
若き曹操もまた、劣等感を闘志へと燃焼させ、特異な人物になるため自らを磨き続けた人だったと思われるのです。旧体制の中で感じた劣等感が、革命児を生んだのです。
父が権力者である宦官の養子になり、養父の七光りで地位を得たこと、自らも親や祖父の影響によって世の中に知られた曹操。しかし若き曹操の中では「オレの実力で出世してやる!」という怒りにも似た情熱があったのではないかと推測できます。
「太祖はあるとき中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入した。張譲はそれに気づいた。そこで太祖は庭の中で手に持った戟をふりまわし、土塀をのり越えて逃げ出した、人並みはずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった」(注:戟は武器の一種)
「ひろく種々の書物を読んだが、とりわけ兵法好きで、諸家の兵法の選集を作り『接要』と名づけた。また孫武の兵法一三篇に注した」(いずれも『正史三国志魏書』より)
上記の逸話から、曹操が若き頃より自らの武芸を相当に鍛え、実力主義の象徴のような兵法書を好んだことがわかります。彼の父も後漢で出世していることから、家は裕福だったはずです。にも関わらず、自らを鋼のように鍛え続ける青年曹操の姿からは、家の裕福さ、祖父や父の七光りをどこかで嫌う(憎む)ような意志が感じられるのです。
曹操は後年(210年)、役立つ才能があればそれだけで厚遇する「唯才是挙」という人材登用の通達を出しています。突出した才能があれば、不徳も家柄のなさも構わない。まさに、実力主義を熱愛した曹操の志向を感じることができます。