若き日の劉備を変えたできごと

三国志の英雄の一人、劉備は161年生まれ。漢帝国の血筋、中山王の末裔だと言われています。祖父、父共に地方の役人でしたが父の劉弘(りゅうこう)は、劉備が幼い頃に死去し、家にはほとんど蓄えもありませんでした。

「先主は幼くして父を失ったが、母とともにわらじを売ったりむしろを編んだりして、生計を立てた」(書籍『正史三国志蜀書』)(注:先主とは蜀の皇帝となった劉備を指す)

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

劉備は幼いころから生計を立てるため働かなければならず、曹操や孫権など、生まれたときから裕福で、親による強い後ろ盾があった2人とは、まったく違う境遇でした。しかし、貧しく幼い子供の中には、強い情熱が芽生えていたのです。

「先主は幼いとき、一族の子供たちとこの樹の下で遊びながら、『おれは、きっとこんな羽根飾りのついた蓋車(天子の車)に乗ってやるんだ』といっていた」

幼い子供だった劉備の野心や情熱とは別に、家は貧しいながらも、劉備は一族の中でも他の子供達とは違い、なにか目立つ存在だったようです。叔父である劉元起(りゅうげんき)は、劉備が青年期になると、学資を援助して劉備を当時有名な儒学者である盧植(ろしょく)の学舎に通わせています。

「劉徳然の父の劉元起はいつも先主に学資を与えて、息子の劉徳然と同等の扱いをした。劉元起の妻が、『それぞれ別に一家を構えているのに、どうしていつもそんな事をなさるのですか』というと、劉元起は、『われら一門のなかにこの子がいて、(この子は)なみの人間ではないからだ』と答えた」(書籍『正史三国志蜀書』)

劉備の一族は、漢の王族の血筋と言われながらも、先祖の中山王は前150年頃の人物であり、その栄華は300年前のものでした。劉備は祖父の代まで地方の豪族レベルの家でしたが、父が早世したために、極貧の母子家庭として幼少期をすごしました。

劉備の資質を見抜いた親族の存在により、高名な盧植の学舎で学ぶ機会を得たことは、のちに劉備の人生に大きな影響を与えます。そこで知り合った青年(公孫サン:こうそんさん)と意気投合し、のちに公孫サンが地方軍の指揮官となったことで、劉備は彼を頼り、世に出る大きなきっかけとなったからです。