諸葛亮は政治家として超一流でも武将としては及第点

諸葛亮が、軍事指導者としては司馬懿には劣ることはすでにお伝えしました。

孔明が本格的に軍事指導者として働くのは、225年の南部四郡の反乱平定のときからです。皇帝の劉備が亡くなった(223年)以降であり、関羽、張飛、馬超、黄忠などの勇将はすでに他界していましたが、孔明は南征を成功させます。

さらに魏への侵攻、北伐を孔明は行いますが、第1回は内応するはずの猛達を司馬懿に倒され、第2回の北伐では孔明が要所に配置した馬謖の判断ミスで魏軍に敗れ、いずれも撤退を余儀なくされています。

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

「政治のなんたるかを熟知している良才であり、(春秋時代の)菅仲、(漢の)蕭何といった名相の仲間といってよいであろう。しかし、毎年軍勢を動かしながら、よく成功をおさめることができなかったのは。思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」(書籍『正史三国志蜀書』)

第4回の北伐では、祁山の戦いで孔明と司馬懿が対峙します。蜀軍の進出に、司馬懿は命を受けて遠征。孔明は補給の憂いを断つために、進出した地域の麦を刈り取らせる作業を行います。それを聞いた司馬懿は次のように言いました。

「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。必ずや自軍の守りを固めて安泰にし、それから麦を刈り取るだろう。私なら二日間昼夜兼行で進めば十分間に合わせることができる」

諸葛亮は司馬懿の魏軍が予想よりも早く到着したために、その姿を見て撤退します。

司馬懿は蜀軍の撤退を見て、「我々は通常の倍の道のりで進んで来たため、疲労している。兵法を知る者であればむさぼりかかるところである。だが、諸葛亮は渭水を天険に我々に攻めかかろうとはしない。これなら与し易い」

(いずれも書籍『正史三国志英傑伝II成る』より)

物事の手順を踏み、確実な体制を創り上げる孔明の思考が読み取れる一方で、その孔明の考えは司馬懿に読まれており、戦場では作戦の機先を制せされています。

政治や統治活動と、短期間で好機が見え隠れする戦場では正しい振る舞いが真逆のことがあります。優れた政治家の諸葛亮は、堅実な手を選ぶため戦闘で司馬懿に負けないことはできても、機会を迅速に掴まえる司馬懿を打ち破ることはできませんでした。

私たちの人生、ビジネスでも「準備できる機会」と「準備できない機会」が存在します。コツコツ行うべきこともあれば、歩いてふと意中の異性に出会うこともあるでしょう。あるいは取引先のキーパーソンと、思いがけず雑談する機会を得るなどです。

準備できない機会を出くわすとき、「熟考してからまたあとで」などと悠長なことは絶対にできません。目の前の機会は一瞬だからです。

孔明は優れた政治家として、段階を追って積み上げる業務は見事に成功させています。しかし戦場の機微のように、準備できない機会を活かすことはやや苦手だったのです。