子供を伸ばす親、子供を潰す親の違い

三国志は英雄だけでなく、親と子供の関係についても多くの示唆を与えてくれます。

後漢の滅亡から265年の三国時代の終わりまで80年以上あり、後継者の問題は避けて通れないことでした。

現代でも、子供の育て方、後継者の選び方は親を悩ませ続けているやっかいな問題です。三国志の英雄達から、子育ての成功者、失敗者の事例を見てみましょう。

『実践版 三国志』(鈴木博毅著・プレジデント社)

成功した子育てを三国の英雄に見た場合、最初の共通点は親から古い目標を押し付けられていないことです。曹操の父曹嵩(そうこう)は、政治官僚で忠孝を重んじる保守的な人物でした。しかし曹操は青年期からどちらかといえば破天荒、放蕩を重ねた若者として育っています。

劉備も、叔父の劉元起が認めたように「一族の中で特別な者」と考えられており、むしろを売って生計を立てていた母とはまったく別の人生を目指す雰囲気の中で育ちました。

孫権もまた、死去する直前に兄から別の目標を提示され、励まされています。

「江東を率いて敵味方両陣の間で戦機を決断し、天下と覇権を競うのは私のほうが優れている。しかし才能あるものを用いてその心を尽くさせ、江東を保全するのは卿の方が一枚上だ」(書籍『正史三國志英雄銘銘伝』)

親というものは、ある程度の割合で「自らを模範とすること」「同じ職業、ビジネスで成功して欲しい」と子供に期待するものです。特に自分自身が成功している場合は。

しかし三国志を振り返るとき、時代の転換点で揺れる社会の中では、新しい時の入り口で新たな目標を掲げ、これまでとは違う世界に飛び込んだ者から出世していきます。

その意味では、時代や世代が変われば成功者や勝利者の形は違うと考えられるのです。

一方で劉備は、子供の劉禅と諸葛亮の才能を比較して、孔明に次の言葉を残しました。

「君の才能は曹丕の十倍はあり、きっと国家を安んじ、最後には大事業をなしとげることができよう。もしも後継ぎが輔佐するに足る人物ならば、これを輔佐してやってほしい。もしも、才能がないならば、君は国を奪うがよい」(書籍『正史三国志蜀書』より、劉備が臨終の際に、諸葛亮にかけた言葉)

劉備の子、2代目蜀の皇帝である劉禅は凡庸な人物といわれました。しかし蜀の創始者として「劉備が模範」と子供に付託すれば、同じ分野で父ほど才能のない息子は、確実に腐ってしまいます。父の模倣を周囲から期待され、常に比較をされながらも、それに届き、追い越すことはできないからです。