天正元年(1573)4月12日、武田信玄が死んだ。
――「巨星堕つ」。
死の床についた信玄は、一族と重臣たちを枕元に呼んで長櫃を開けさせた。そこには800枚あまりの紙が入っており、すべてに信玄の花押(かおう)が書かれていた。
「もし自分が死んでのちに書状が届いたら、花押の書かれた紙を使って返信するように。そうすれば周辺諸国の武将たちは、わしが生きていると思うはずだ」
そして信玄は、こう遺言を残す。
「3年間は、わしの死を隠し、国の安全を保て」
さらに「葬儀はするな。3年後の命日に、遺体に甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と付け加える。
一族や重臣たちは、信玄の影武者を仕立てて過ごし、3年後の4月12日、葬儀を執り行う。さすがに遺体を諏訪湖に沈めることはしなかった。
信玄の遺言は、ほかにも多くあった。
「上杉謙信と和議を結べ。謙信は男のなかの男だから、勝頼のような若い者を苦しめるようなことはあるまい。まして和議を結んで『頼む』と言えば約束を違えることもあるまい。勝頼が謙信を尊敬して頼りにすれば、彼も悪いようにはしないはずだ」
「織田信長も徳川家康も謙信も北条氏政も、わしより年下だ。わしが死ぬのを待っている。だが勝頼は彼らのだれよりも若い。彼らのほうが先に死ぬ。だから彼らに負けないようにして、ひたすら国を持ちこたえさせよ」
「わしが死んだのちは謙信にかなう者はいない。だが天下を取るのは信長だ。だから、ふたりの運が尽きるのを待て」