天正10年(1582)6月2日早暁、京都の本能寺を明智光秀の軍が包囲し、わずかな手勢で宿泊していた織田信長を襲い、自害に追い込んだ。

本能寺の変―あまりにも有名な、この事件の陰に隠された、もうひとつの死があった。

同じく京都の妙覚寺に宿泊しているとき、本能寺の変を知り、救援に向かおうとするが信長自害の報に接し、二条城に入ったところを明智光秀の軍に囲まれ、同じように自害に追い込まれた、信長の嫡男信忠だ。信忠は、京都から脱出することもできないまま、自害して果てたとされる。

享年、数え26。

26歳といえば、戦国武将としても立派な年齢だが、その事績は、一般にはあまり知られていない。信長に、これほどの年齢の嫡男がいたことすら、知られていないかもしれない。

同じ数え26歳のとき、信長は上洛して将軍足利義輝に謁見し、翌年、数え27歳のときには、数的不利な状況にありながらも、上洛途中の今川義元を桶狭間に襲って討ち果たし、その名を津々浦々に轟かした。

信長の「デビュー」は、あまりに華々しかった。

それにひきかえ、信忠が愚将といっているわけでは、けっしてない。

信忠も、戦国武将として堂々たる戦績を残している。

元亀3年(1572)元服。浅井長政攻めで初陣して以降、石山合戦、伊勢長島一向一揆攻め、長篠の戦い、武田の武将秋山信友が籠もる岩村城攻めで功績を残し、天正4年に信長が安土城に移ると、美濃・尾張の2カ国を譲られて岐阜城に入り、その後も、雑賀(さいか)攻め、信貴山(しぎさん)の松永久秀討伐、中国攻め、そして天正10年の武田攻めでは織田軍の総大将として出陣して勝頼を滅ぼしている。

だが……。

信長があまりに偉大、そして、その存在が凄すぎたといえる。

「親の七光り」は、戦国時代においてはけっして通用するものではない。あまりに父信長の発する光がまばゆすぎて、嫡男信忠の功績がかすんでしまった感がある。父と同等では「超えた」と評価されない。父以上の実績が必要なのだ。

信長の死後、「中国大返し」を敢行、山崎の戦いで明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉は、織田家相続と遺領配分を決める清洲会議を主催した。「信長の次男信雄(のぶかつ)だ」「信長の三男信孝だ」と揉めるなか、秀吉は、亡き信忠の子でまだ赤ん坊の三法師(さんぼうし:のち秀信)を担ぎ出して織田家を相続させ、みずから後見人となって実権をにぎる。