元和元年(1615)5月7日、大坂城が落城。翌8日、淀殿と豊臣秀頼が自害して、大坂夏の陣は終わった。
なぜ、豊臣家は滅んでしまったのか。
ここで問うのは、徳川家康が滅ぼした、という外的要因ではない。あくまでも内的要因だ。
話は、天正17年(1589)5月27日までさかのぼる。
ずっと、秀吉には実子がいなかった。正室ねね(のち北政所)とのあいだに子宝が恵まれなかったのだ。だが、この日、側室淀殿とのあいだに、ひとりの男子が誕生した。名は捨(すて)。やがて鶴松と呼ばれるようになる。
豊臣家に待望の男子が誕生し、秀吉は喜び、側室淀殿は、ただの「愛人」から「世継ぎの母」へと成り上がる。
鶴松はすくすくと育ったわけではなかった。蒲柳の質で、数え3歳となった天正19年閏1月に発病し、8月5日に病死してしまう。
そこで、あわてた秀吉は、同年11月に甥の秀次を養子とし、12月には豊臣姓を贈り、関白職を譲った。すでに朝鮮出兵を発表していた太閤秀吉にかわり、秀次が聚楽第に入って内政を執るようになった。だれの目にも秀次が世継ぎになったと映った。
ところが、秀次が世継ぎになって2年も経たない文禄2年(1593)8月3日、淀殿が、ふたりめの男子を産んだ。秀吉は狂喜乱舞。「捨」と名付けた鶴松が早世したことから、ふたりめの男子には「拾(ひろい)」と名付けた。のちの秀頼だ。
拾が生まれると、秀吉は鶴松以上に溺愛し、逆に甥の秀次をないがしろにしはじめた。このとき秀次が拾の誕生を心から祝して身を引けばよかったのだが、「おもしろくない」と思ったことを秀吉も気づいていたのだろう。秀次は「謀反」の嫌疑をかけられ、官職を剥奪されたうえで高野山に追放され、わずか7日後に切腹を申しつけられてしまうのだ。そればかりか秀吉は、秀次の妻妾・遺児(すべてではない)を三条河原で処刑し、秀次の血を実質根絶やしにしてしまうのだ。
たったひとりの世継ぎとなった秀頼は、秀吉の死後、数え6歳で豊臣家を継いで大坂城に入った。だが、わずか6歳の秀頼に政治はできず、秀吉の遺言にしたがい、豊臣政権は五大老・五奉行によって司られた。
だが五大老・五奉行よりも、強大な権力を誇示したのが淀殿だった。五大老・五奉行のなかでも、石田三成を中心とする側室淀殿派、徳川家康を中心とする正室北政所派に分かれ、やがて関ヶ原の戦いの下地ができあがっていく。