己の領国を守るプライドも大事だが、意固地になりすぎると、その領国をも失うことになる。長いものに巻かれること、長い目で見ることも必要なのだ。
相模を本拠とする北条氏は、長年にわたり、領国を接する甲斐武田氏、駿河今川氏と三つ巴の戦いを繰り広げてきた。
北条氏康の時代―今川氏親(義元の父)の娘が北条氏康(氏政の父)に嫁いで同盟を結んで武田信虎(信玄の父)と対抗。ところが信虎の娘が今川義元に嫁いだことで、北条と今川の関係が微妙なものとなる。
三者それぞれに目標があり、それぞれ事情を抱えていた。
北条は関東に攻めてくる上杉謙信に対抗したい。武田は相模・駿河に気をつかうことなく信濃を攻めたい。今川はすぐ近くに徳川や織田がいて、いつ領国に攻め込まれるかわからない。というので三国同盟が結ばれることとなった。
北条氏康の娘→今川義元の子氏真室
今川義元の娘→武田信玄の子義信室
武田信玄の娘→北条氏康の子氏政室
三者それぞれが、人質として娘を他家に嫁がせることで三国同盟は成立する。
「関東三国志」ともいえる時代だった。さしずめ――。
武田信玄=曹操(魏)
今川義元=劉備(蜀)
北条氏康・氏政=孫権(呉)
だが信玄の子義信が謀反の嫌疑で自害する事件が起きたため、義信の妻が今川家に帰されて、三国同盟は事実上消滅。さらに信玄が駿河に攻め入り、今川氏真(義元の子)が妻の実家である北条に出兵を要請。ここに三国同盟は完全に崩壊することとなる。
義元の死後、弱体化した今川にかわり、北条氏康の外交戦略は、甲斐の武田、そして越後の上杉に向けられる。
永禄12(1569)年、北条氏康は越後と同盟を結ぶ。上杉謙信は甲斐出兵を約束し、北条氏政の弟が謙信の養子となる。これが上杉景虎だ。謙信の死後、上杉景勝と跡目争いをするが、景勝が武田勝頼と同盟を結んだため、景虎は敗れ、自害する。NHK大河ドラマ『天地人』でご存じの方も多いはず。
元亀2(1571)年に北条氏康が病死すると、その遺言によって相模・甲斐同盟が復活し、越後・相模同盟は消滅する……。