兄弟は競わせるより必ず協力させよ!

後継者選びでは、三国志の中に有名なくだりがあります。

曹操が後継者の選定で悩んだときに、謀臣の賈クに意見を聞いた話です。

「二一七年、曹操が後継者選びを諮問した時、賈クは黙ったままだった。曹操が重ねて問うと「袁紹・劉表父子のことを考えておりました」と答えた。どちらも嫡子を廃して死後内輪揉めを起こした人物である。曹操は大いに笑い、曹丕を後継者に決めた」(書籍『正史三國志英雄銘銘傳』より)

袁紹は北方で最大の軍閥でしたが、後継者を正式に決めておらず、長男の袁譚派と三男の袁尚派に袁家は分裂し、骨肉の争いをしながら勢力を衰退させ、曹操にすべての一族が破られて滅亡しました。

袁紹は、異母兄弟の袁術とも折り合いが悪く、この兄弟が2人で力を合わせていれば、天下を取っていたと言われながらも、共にみじめな敗者となっています。

荊州を治めていた劉表も、長男の劉キと二男の劉ソウのどちらを後継者にするか悩み、次男を支持する一派が、劉表に長男の悪口を吹きこみ続けたことで関係が悪化します。

結果、劉表は次男の劉ソウを跡継ぎにして長男は身の危険を感じて故郷を離れます。

このような跡継ぎの争いで家臣団も分裂、曹操に侵略をされて国は滅びました。

三国志の歴史と人物たちが教えているのは、後継者選びのために兄弟を争わせたり、競わせたりすることが、深刻な問題を引き起こし、一族を崩壊させる原因となることです。

曹操は実力主義を標榜し、長男の曹丕と曹植(三男)は後継者を競うために、互いに衝突し、2人を支える家臣団の争もエスカレートしていきます。

217年に曹丕が正式に跡継ぎとなると、曹植を支援した家臣たちは粛清され、曹植も僻地に飛ばされてしまい、のちに曹一族が司馬一族に打倒される遠因になりました。

孫権も跡継ぎでは最後まで悩み、長男の孫登が30代で死去すると、もともと皇太子だった孫和を廃して、孫亮を皇太子にします。しかしその過程で、家臣団が分裂して相手の皇太子候補を孫権に讒言する陰謀が生まれ、呉の政治は混乱をしてしまいます。結局、孫和は皇太子を廃され、彼を支えた名将の陸遜は憤死、皇太子候補を争った孫覇は自殺を命じられ、末子の孫亮が2代目の呉の皇帝となりました。

現代でも競争が成長を促進すると考えて、親族や兄弟姉妹をお互いに比較して競わせる親がいます。それは家族の中での刺激を与えると共に、貴重な味方になるはずの最も近い血縁者を、分裂させることになるのです。この世界は冷徹で、豊かさを手に入れたいライバルで溢れています。兄弟姉妹を競わせる親は、重要なことを忘れています。ほとんどの敵は、家の外に溢れているという現実を。

兄弟姉妹が一致団結していくことを家訓、一族の慣習にする。家督を継ぐ者は、極めて早い時期から明確に決めておく。時代遅れと言われるかもしれませんが、兄弟で分裂して争った一族は、三国志の時代ではいずれも惨めな最後を迎えました。これは、現代でも皆さんが子供たちの世代に伝えることができる、最も貴重で恩恵のある知恵の1つなのです。

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