関羽の快進撃の成功を孔明は支援すべきだった

関羽は当初、魏の要所への戦闘で快進撃を続けていました。このことは孔明の予想外の成果であり、期待以上の戦果を挙げていると見ていたのかもしれません。

「二十四年(二一九)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節と鉞(専行権を示す)を貸し与えた。この年、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。曹公は于禁を救援に差し向けた。秋、大変な長雨がふって、漢水が氾濫し、于禁の指揮する七軍すべてが水没した。于禁は関羽に降服し、関羽はまた将軍のホウ徳を斬った。梁こう・陸渾といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた」(書籍『正史三国志蜀書』)

著名経営学者のピーター・ドラッカーは、著作の中で「予期せぬ成功」について取り上げています。それは重要ながら放置されることが多いと彼は指摘しました。

「予期せぬ成功ほど、イノベーションの機会となるものはない。だが、予期せぬ成功はほとんど無視される。困ったことには存在さえ否定される」

「予期せぬ成功は機会である。しかしそれは、要求でもある。正面から真剣に取り上げられることを要求する。間に合わせではなく優秀な人材が取り組むことを要求する。マネジメントに対し、機会の大きさに見合う取り組みと支援を要求する」

(ともに書籍『イノベーションと起業家精神』より)

諸葛亮は、関羽の予想以上の快進撃をただ喜ぶだけではなく、瞬時に増援や後詰の勇将を派遣するべきだったのです。魏の曹操が遷都まで考えた関羽の進撃は、「機会の大きさに見合う取り組みと支援を要求」していたのですから。

「樊城攻撃を認めた段階で、後詰めの将を送ることだった。張飛・趙雲・馬超・黄権は健在で、彼らの中から誰か一人でも送っていたら、呉の裏切りを防げたであろう」(書籍『正史三国志英雄銘銘傳』)

ビジネスでも予期せぬ成功はたびたび起こります。しかし大抵の場合、事業計画に書かれた人員・資源配分から外れる決断は避けられ、予期せぬ機会はそのまま放置されます。やがては、その機会の意義の大きさを見出した他社にすべてを奪われるのです。

蜀の劉備と孔明の軍団が、天下を統一するシナリオの好機は、2回ほどありました。

ホウ統がもし流れ矢に当たらず戦死しなければ、ホウ統を北伐の指揮官として魏と戦い、孔明は首都で統治・大戦略の設計、南方を押さえる荊州には法正を参謀にして関羽を将軍としてにらみを利かせる(三国志ファンは、是非見たかった戦いですね)。

もう1つは、ホウ統が戦死したのちに関羽が一時快進撃をしたとき、孔明が関羽を最大限支援するために、謀略が可能な人物と強力な武将を数名緊急で派遣しておく。関羽が敗死せず、魏は首都を移転させ、蜀の領土が南北に拡大する。

元々、孔明の天下三分の計は上記の1つ目のシナリオを狙ったものだと思われますが、歴史は1つのボタンの掛け違えから、彼らの夢を消散させてしまう悲運の道を辿りました。

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