ホウ統と法正の活躍、そして劉備の漢中王即位

しかし諸葛亮の軍事的才能がなかったと言えばそうではありません。

大きな計画図の天下三分の計は、劉備との出会いから約13年間はほぼ孔明の意図通りに進み、流浪の軍団は蜀の地を手に入れて劉備は王となれました。

これは素晴らしい軍事的勝利であり、戦略的な設計図で可能となった偉業です。

【劉備と孔明、赤壁後の歩み】
○208年に赤壁の戦いで呉と同盟、曹操軍を破る
○209年、劉備軍が荊州南部を占領
○211年、劉璋の招きで益州に進軍し、214年に益州を占拠
○218年、漢中の魏軍と対峙、219年に黄忠が夏侯淵を斬って勝利
○219年に益州、荊州、漢中を支配して天下三分の計の基本が成立
○219年7月に劉備は漢中王となり、8月に関羽が魏の樊城へ攻撃開始
○219年10月まで関羽は快進撃を続け、曹操は一時遷都を検討する
○219年11月、呉の呂蒙が関羽を攻略、12月には関羽と息子関平が敗死

劉備軍の益州攻略では、諸葛亮と並び才能を嘱望されたホウ統が軍師として参加しており、孔明は荊州の留守を預かっていました。この時期の軍事はホウ統が中心だったのです。

益州の劉璋に仕えていた法正という謀略・計略の得意な人物も劉備軍に内応しており、益州攻略はホウ統と法正の2人の功績とも言えるのです。

しかしホウ統はラク城の包囲戦(214年)で流れ矢により戦死。漢中の魏軍との対戦では、法正が従軍して軍事判断を行い、魏の勇将夏侯淵を討てたのも法正の適切な判断が大きな貢献をしています。

ホウ統と法正、2人について少し取り上げてみましょう。

【ホウ統】
「世俗を教化し、人物の優劣を判断する点では、私はあなたに及びませんが、帝王のとるべき秘策を考え、人間の変転する運命の要を把握している点では、私のほうに一日の長があるようです」(呉の知識人に、自身とホウ統を比べる質問をされて返した言葉)

「その場に応じた方策をとらねばならぬ時代には、まさしく正義一筋では定めることができないものです(中略)。無理な手段(武力)で(益州を)奪っても、正しい方法(文治)で維持し、道義をもって彼らに報い、事が定まったのち、大国に封じてやれば、どうして信義にそむくことになりましょうか。今日奪わなければ、けっきょく他人が得するだけのことです」(益州攻略について、劉備との問答でのホウ統の言葉)

【法正】
(217年に曹操が漢中から撤退し、配下の武将に守備を任せたことに)「これは彼の智謀が及ばず力量が不足したためではなくて、きっと内部にさし迫った心配事があるからにちがいありません。いま、夏侯淵・張コウの才略を推し量りますに、国家の将師を荷いきれません。軍勢こぞって討伐に赴いたならば、必ず勝つことができましょう」

(自軍の苦戦に劉備が意地になり、退却を拒否したとき、法正は敵の矢に身をさらした)

「先主が、『孝直、矢を避けよ』というと、法正は『とのがおんみずから矢石の中におられるのです。つまらぬ男なら当たり前でしょう』といった。先主はそこで、『孝直、わしはおまえといっしょに引き上げよう』といい、かくて退却したのであった。」

(いずれも書籍『三国志正史蜀書』より)

ホウ統も法正も、機を見るのに鋭敏で、その場に生まれたチャンスに的確に応じる柔軟性と瞬時の謀略が可能な人物でした。大戦略として孔明が描いた設計図を元に、臨機応変に現場の戦場に対処する2人の優れた軍師が実行したのです。蜀軍と孔明の計略は、このように孔明とホウ統・法正などの組み合わせが存在するあいだは、ほぼ勝利につぐ勝利を収めています。

しかしホウ統が戦死し、呉の裏切りで関羽ら勇将が死に、法正が220年に病没すると、本来は別の右腕が必要なものを、孔明はたった1人で兼任して戦うことになりました。

赤壁の戦いから219年まで、劉備軍団の飛躍は目を見張るものがあります。ところが以降は、膠着状態に陥りました。その理由は、孔明に欠けている点を輔佐する臨機応変の謀略家や、戦場で速断できる優れた軍師たちが世を去っていたからなのです。