「給食費は払わない」親を教師はどう見ているか
4.「正当な要求」と「モンスターな要求」の境目は?
以前、あるテレビ番組で、次のような親の要求が放送されていました。
「入学式なのに、桜が咲いていないとは、どういうことだ! 子どもがかわいそうじゃないか!」
お気持ちはよくわかります。大切なわが子の晴れの入学式の日に、その父兄の方はきれいな桜が咲いていて欲しかったのでしょう。十分に頷けます。
しかし、この発言は正当でしょうか。まず、学校や教師の力では桜の開花に関して何か有効な働きかけができないにもかかわらず、要求してくることはさすがに問題です。それに、入学式の主人公であるべき子ども自身は桜が咲かないことに本当に困っているのでしょうか。
こんな事例もありました。
「学校に行くから、ウチの子はどうしても給食を食べることになるんだ! 学校に義務で登校しろと言うなら、給食も義務で出せ! 金はないから払えない!」
どうやらご家庭が経済的に困窮しているようでした。しかし、それを無理やり「子どもの困り感」に変換してしまうのは、正当とは言えないのではないでしょうか。
子どもが、給食費を払いたくないと困っているのでしょうか。むしろ「お金を払えない」は「親の困り感」であって、逆順で子どもに理由をつけるのは「こじつけ」と言わざるをえません。
「子どもの困り感」に対して理由をつけるべきです。
「子どもがこう困っている」→「だから何とかして欲しい」なら、正当な理由としてわかります。
それが、「親がこうしたい」→「子どもが困っているように理由をつける」というのが、「モンスターな要求」になってしまう、または見えてしまう原因ではないでしょうか。
正当な要求の根本・本質・原点は、「子どものためになっているか」という一点です。それを言っている親の姿を見て、子どもが何を学ぶかです。「自分のことを本当に大切に思ってくれている」と子どもが思い、真っ直ぐに育つ方向の要求なら間違いないでしょう。
しかし、子どものためにならない「マイナスの教育」となるのなら、それは伝えるべき要求ではないでしょう。
親と学校の願いは、共通です。
それは子どもの成長を真に願っているということ。「モンスター」や「ダメ教師」などというレッテル貼りをせずに、同じ目的を持ったチームの仲間という意識を持って、歩み寄り、共に進む姿勢が大切だと私は思います。