いじめ騒動が「かわいそう」「ひどい」で終わる社会
いじめや暴行の瞬間を捉えた動画がSNS上で拡散され、物議を醸した栃木県や大分県の事例が波紋を呼んでいる。こうした学校内のトラブルはこれまでも繰り返し社会問題として取り上げられてきた。
しかしその多くは、「いじめられている子どもがかわいそう」「いじめている子どもはひどい」という感情的な構図で消費され、しばらくすると忘れ去られていく。
長年、教育現場に立つ筆者は、この問題は単純な善悪論で整理できないと考えている。学校は今、複雑な力関係と不安が絡み合う、外からは見えにくい“カオス状態”に近づいている。誰かが悪いから起きているのではない。むしろ誰もが善意で動いているにもかかわらず、止められない構造ができ上がってしまっているのである。
学校内で起きている「三すくみ構造」
現在の学校には、奇妙な三すくみ構造が存在している。
1つ目は教師である。子どもを叱れば「いじめがある」「厳しすぎる」と問題化される。一方で、叱らなければ「放置している」「指導力がない」「甘い」と批判される。どちらに転んでも責められる構図の中で、教師は次第に境界線を引くことをためらうようになる。
2つ目は子どもである。いじめられているとの認識を持つ子どもは自らを防衛する意識もあり、学校側が自分を守らないなら、SNSなどで訴える手段に出る。声をあげること自体は問題ないが、SNSとなると話は別になる。対立を対話で解決する力を学ぶ機会が減って、ケースによっては関係調整よりも「被害者ポジション」を取るほうが得だと無意識に学習してしまう。
3つ目は学校である。トラブルを恐れるあまり、事なかれ主義に傾きやすくなる。「問題を起こさないこと」そのものが目的化し、指導よりも回避が優先される。
こうして、
・叱れない教師
・被害者ポジションを学習する子ども
・線を引けない学校
という三者の均衡が生まれる。
誰も悪意を持っていないにもかかわらず、誰も止められない。学校は緊張と不安を抱え込んだまま回り続ける。

