長塚智広(競輪界のトップスター)
ちょっと切ない引退会見だった。カメラのシャッター音が重なる中、五輪自転車メダリストで競輪のトップスターの長塚智広が口を開く。「不思議な感じですね。いつもの競輪場と雰囲気が違うので……」と。
場所は、日本オリンピック委員会(JOC)やスポーツ競技団体の事務局が集まる渋谷・岸記念体育会館の3階の記者クラブ室だった。卓球台2つ分くらいの白いテーブルを記者が取り囲んでいた。テレビカメラも5台。
「こんにちは。自転車競技者の長塚智広と言います。きょうは自転車競技者として引退する報告をいたします」
悩んだ末の決断だろう。日本競輪選手会からの脱退騒動で昨年5月から1年間の出場自粛勧告処分中の引退である。「ラストラン」を見たいとのファンの声をあったが、騒動の責任を1人で背負うかのような形をとり、静かに競輪界から身を引いた。
36歳は引退理由を説明する。
「自転車競技者として、体力的には、これ以上、上を目指せない。オリンピックでもメダルをとることができない。そう考えて、一線から引く決断をしました」
涙はない。
「あの~、なんでしょうね。悲しんで辞める、現役を続けたいという気持ちはもう、正直、ありません。ほんとうに楽しい前向きな気持ちでいっぱいです。完全に(自転車を)やり切ったという気持ちです」
茨城県出身。茨城・取手一高の1年生から自転車競技を始め、1998年には競輪デビューした。G1・小倉競輪祭で優勝するなど華々しい戦績を残した。茨城県知事選や参院選に立候補したり、趣味の株の本を出したり、マルチな才能を発揮してきた。
五輪には2000年シドニーから04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場した。アテネではチームスプリントで銀メダルを獲得した。その時、「スポーツのチカラ」を実感したと述懐する。
五輪後、ファンから1通の手紙をもらったという。「自分があきらめていた夢をもう一回、目指そうと思います。長塚さんたちの走りを見て決めました」と書かれていた。その後、届いた手紙には「あきらめていた夢をかなえることができました」とあった。
「私が25、26の時です。スポーツのチカラが人の心に対して感動を与えるということを、プレーヤーとして初めて感じた瞬間でした」
さらに2011年の東日本大震災の際、被災地を何度か訪れ、スポーツのチカラを再認識するようになった。早稲田大学大学院に通った時の論文のテーマは『トップアスリートによる被災地における継続的スポーツ教室の効果』だった。
昨年の競輪選手会からの退会騒動も、衰退の一途をたどる「競輪界がよくなってほしい」という気持ちからだった。でも、失敗した。今後は競輪界を離れ、被災地支援やメダリストの育成など、スポーツ界の発展に寄与する意向である。
「2020年東京オリンピック・パラリンピックに向け、オリンピックメダリストとして、日本の社会に今まで以上に、ご恩と経験を御還元できるように活動していきたい。トップアスリートで行われている治療技術、スポーツ医療、トレーニング技術などを一般のみなさんに広めていきたい」
波乱万丈の人生も、妥協を許さず、己の信じる道を走っていく。