卒論実験への指摘 転進した就職先

1952年11月、東京都墨田区で生まれる。いまスカイツリーがある近くで、父は建設業を営み、すぐ下の弟は早世し、父母ともう一人の弟との4人家族。小学校4年のときに文京区へ移り、中学校時代に軟式テニスを始め、都立竹早高校でも続けた。高校は女子のほうが多く、文化祭でフォークダンスをやると、男子が不足した。軟式テニス部員も女子が多くて、強かった。

数学や物理が得意で、早大理工学部の機械工学科へ進む。卒論のテーマは「電熱管の管配列に関する実験」。ソ連の学者の論文をもとに、研究室で実証実験をしたが、コンプレッサーの音がうるさいと、近所から苦情がきた。音を遮ろうと、厚い電話帳で周りを囲っていると、通りかかった先生に何のためか問われ、「そんなので静かになるか。まあ、やってごらん」と言われた。

翌日、実験を始めると、全く静かにならない。先生がまたきて、「では、そこにある管とその配管をつないでみろ、静かになるから」と言った。言われた通りにすると、見事に静かになる。大学院生も加わり、何人もでやってダメだったものを、ひと目みただけでわかる。自分では、とても追いつかない、メーカーにはそういう人がたくさんいるに違いない、と思った。だから、就職先には、メーカー以外の技術職を選ぶ。

76年4月に入社。研修などを経て10月、羽田の整備本部装備工場へ配属される。同期の技術職7人のうち5人は、空港で機体の周囲に張り付く仕事で、出発時に手を振って見送る役もする。自分たち2人は、工場で装備品を扱う。自分は油圧課機装係で、エンジンの回転を一定に保つ装置の分解整備を担当した。どちらかと言えば、整備本部でも少数派。「花形」には遠い世界だった。

この後、労組の専従役員、トラブル時に監督官庁への対応もする品質保証部、経営計画の策定や機体の選定をする企画室を歴任。なぜか、どこも2度ずつ勤務した。営業担当の役員もやり、炭素繊維を駆使した省エネ機「B787」の導入プロジェクト長も務める。整備部門出身者としては「初めて尽くし」の経歴だ。もちろん、どこでも課題があれば、よく調べ、静かに考え抜く。決して「以疑決疑」とならぬよう、根拠を示し、提案や説得を重ねた。

2013年4月、ANAは持ち株会社を設立、その下にぶら下がる子会社が事業を受け持つ体制に変わった。その事業会社の社長に就任。

競争相手の復活、グローバルな競争激化、燃料費の高騰、日本の人口減少など、ANAの経営は、いま雲の中にいるような時期。「彼のように、幅広い経験を持ち、どことも摩擦を起こさずに説得し、決して博打はせずに、やるべきことを着実にやっていく。そんなトップが、求められるときだ」と、先輩が評した。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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