最高益更新、構造改革の真っただ中、イノベーションの途上……。それぞれの局面で求められているのはどのようなリーダーなのか。

ANAがホールディングスカンパニーになるのに伴い、事業子会社となる全日本空輸の社長を託された。初の整備出身だが、伊東信一郎前社長とともに業務改革を行ってきた。成長のカギだと考えているのは、今1番動きが活発なアジア。成田、羽田をハブにして、アメリカ、ヨーロッパまでつなげることが戦略目標だ。物静かだが話し好き。今も相対性理論に興味を持つ理系経営者だ。

――社長になってやるべきことは?
全日本空輸社長 篠辺 修氏

【篠辺】企画担当の役員になったときから経営計画に携わってきた。経営層が最終的に判断する際に、私も意見を言い、原案をつくってきた立場だったので、その計画を実行する責任者が伊東から私に変わっただけだ。特段の引き継ぎはなく、「来年だけどさ、頼むよ」と言われただけだ。

私は整備出身だが、営業や企画も経験してきた。企画に配属されたとき、最初の仕事はエンジン選定だった。その後、中期計画や機材計画などを担当。さらに業界の仕事として定期航空協会で航空政策にも携わり、着陸料や燃料税について議論した。分野の違う仕事だったが、幸いにしてそういう順序で仕事ができたので円形脱毛症になるようなストレスはなかった。営業推進本部に配属されたとき、その前任が伊東前社長。彼が社長のときも企画担当だったので、問題認識は共有している。

――苦労した仕事は?

【篠辺】アメリカの連邦航空局(FAA)が当時、整備体制についてもライセンスを発給していた。私たちはアメリカの航空機も整備していたから、もちろんFAAのライセンスを持っていた。ところが、その更新の手続きの際に書類上の不備がいくつも指摘された。このままでは駄目だから、当然交渉ということになった。最初はこちらの言い分もあり「言うべきことは言う」立場だったが、知り合いの検査官に聞くと、もう免許剥奪の段階まで進んでいることがわかった。

そのとき、初めて食事がのどを通らない経験をした。精神的には丈夫なほうだと思っていた。責任者としてアメリカに行ってステーキをご馳走になっていたときだったが、話を聞いて、箸が進まなくなったのだ。

翌日から交渉の予定だったが、強行突破は中止することになった。柔軟戦法に切り替え、コンサルタントも雇って、FAAへの対応の仕方もきちんと勉強しながら進めていった。こじれたらアウト。これも初めての経験だった。結果的には、指摘されたところは素直に直すことにした。私たちにも言い分はあった。綿密に調査し直す代わりに時間をくださいと申し出たら、FAAの検査官も「3カ月やるから、それまでにちゃんと修正すればいい」とノーペナルティでもう1回チャンスをくれた。アメリカ人でも日本人的な人情を持っているものだと思った。その検査官がトンカツ好きだとわかってからは以後、ご馳走するようにしたが(笑)。