最高益更新、構造改革の真っただ中、イノベーションの途上……。それぞれの局面で求められているのはどのようなリーダーなのか。
丸の内、大手町など金融の中心地から遠く離れた江東区木場に本社をおく。応接室の窓から見えるのは住宅地と中小企業。この景色こそ「私たちのお客さま」だと常に肝に銘じている。軽快に動き、銀行トップ特有の圧迫感はない。東和浩新社長は、2012年11月に死去した細谷英二会長の下で財務担当を務め、公的資金の返済計画を立案した。財務・企画畑と言われるが、若い頃は資本市場畑を中心に過ごした。
――思い出に残る仕事は?
【東】若い頃に勉強になったのは、取引先の大手製薬会社に出向したときだ。期間は半年ほどだったが、3年分の価値はあった。それまでは机の上で「お客さまの悩み」について想像するしかなかったが、実際にお客さまの組織で働いたことでいろいろなことに気づくことができた。
取引先の経理部員の1人として、銀行や証券会社のセールスを見ていると、お互いのニーズとウォンツが微妙にズレていることが多かった。そのズレが見えたからこそ、取引先が本当に解決したい悩みや私たち銀行が提案すべき内容がわかってきた。これからの志ある銀行員は、取引先の会社に1度は出向し、資本政策のお手伝いなどの経験を積んではどうだろう。そして出向を終え銀行に戻ってきたときに、その経験が自分の糧となっていることに気づくだろう。
――苦労された仕事は?
【東】企画部で不良債権問題に携わったときだ。とりわけ1993~2003年の約10年間は金融業界そのものが悪化して再編の話になっていった。銀行自体をどう運営していくかという時代だった。結果として03年5月に公的資金の注入が決定したが、直前のGWまで、私たちは何もわかっていなかった。当時大阪にホールディングスの本社があり、連休が明けて大阪勤務に戻ったら、りそなグループの決算はどうなるかわからないという話になっていた。それからは忙しすぎて、ほとんど記憶がないぐらいだ。約2兆円の資金を注入されたものの、「果たして再建できるのだろうか」と危惧していた。6月になって細谷からいきなり「財務部長をやれ」と言われた。そのとき私は財務部門の実務をほとんどしたことがなかったので辞退しようとした。しかし、「ほかに誰かやれるやつがいるか」と一喝され、受けざるをえなかった。
会社を辞めていく仲間も多かったが、私は辞めようと思ったことはない。例えば私がもし転職のために他の会社の面接を受けたとして、「りそな出身」と話したときに、「ああ、あの銀行ね」と言われるのが嫌だったのだ。残された私は再建に向けてとにかくもう踏ん張らなきゃいけないという感じだった。自分はトップでも何でもなかったが、とにかく立て直して、いい銀行にしたいとずっと思っていた。