関空での新発想「週末グアム」
94年9月4日、関西国際空港が開港した。当時43歳。国内外で発着枠を獲り、どの飛行機をいつ、どこへ飛ばすかというダイヤグラム(運行表)を編成する「ダイヤ屋」と呼ぶ部門の課長職にいた。
関空は「24時間離着陸が可能」をうたい文句に、内外の航空会社の新路線を呼び込んだ。でも、国内では、ほかに夜遅く離着陸を認めている空港は、ほとんどない。だから、夜に着陸すると、翌朝まで駐機させておくことが多い。ときには、ジャンボ機がひと晩、遊んでしまうこともある。大きなロスだった。
そこで、考えた。「片道3時間余りのグアムへ飛ばせば、翌朝までに往復できないか?」。調べると、運行表上は可能と出た。569席あるジャンボ機を夜間も飛ばせれば、かなりの収入になる。
だが、提案を受けた客室サービス部門が頭を抱えた。国内線用のジャンボ機は、食事を出さないから、食材を温める装置がない。食器を載せるトレーを納めるスペースもなく、機内食サービスは絶望だ。でも、国際線のお客に、何も出さないわけにはいかない。検討を重ね、「夜間だから、紙の箱に入れた軽食と、1人に1本ずつ寝酒用の缶ビールを出そう。それなら、積めるだろう」とのアイデアにたどりつく。ところが、缶ビールのケースの大きさから計算すると、360缶しか積めない。
関係部署の会議で、その数字が報告された。全乗客一律のサービスを守るために「販売席数は360でお願いしたい」とも言う。それでは、収入は伸びない。すぐに、問いかけた。「本当に、360缶しか積めないのか」。機内サービスの担当課長は「積めない」と言い切った。失望感が部屋を包む。でも、こういうとき、伊東流は、深追いをしない。後で触れるが、故郷で身に付いた「穏やかさ」。それが、相手の心を揺さぶって、ときに難問も切り拓く。担当課長も、何となく、再確認に走った。すると、計算違いがみつかる。実際には、800缶も積めたのだ。
金曜日の夜に関空を飛び立ち、月曜日の早朝に帰国するグアム週末旅行は、若い人の心をつかんで大ヒット、看板商品となる。
「ダイヤ屋」には、運輸省(現・国土交通省)へ通って発着枠や運賃の認可をとる役割と、それに基づいて実際の運行表をつくる仕事がある。後者は、全国の便を盛り込んだ複雑きわまりない折れ線グラフを、多色の色鉛筆を駆使して、引いていく。自分がやったら、頭が変になってしまうと思うほど、超緻密な作業だ。しかも、仮に羽田便を1本引き忘れれば、1カ月に5億円も損が出る、とも言われた。
そんな仕事は、とても自分にはむかない。当然、前者の「役所通い」の先頭に立つ。ただ、発着枠の拡充は、そう頻繁にはないから、ふだんは「どの飛行機を、どこに、どう飛ばすのが最善か。一番大きい飛行機は、どの時間に飛ばすべきか、そこへ飛ばすためのパイロットは揃っているのか、整備士はその空港に配置してあるか」などを整理した事業計画をもとに、役所と調整する。
当初は、すべて認可制で、ぶ厚い資料を持参し、チェックを受けた。でも、自由化が進み始め、40代後半で二度目の「ダイヤ屋」になり、事業計画部長を務めたころには、役所通いは減る。人間関係を築くために、夕方になると用事がなくても出向き、相手と一杯やるのが常だったが、大蔵省などの「接待汚職」を契機に、なくなった。
酒と言えば、忘れられぬ体験がある。あるとき、台湾の航空会社の幹部から相談された。「日本への乗り入れ申請をする際に、弁護士に手続きを頼むと多額の金がかかる。全日空が、手を貸してくれないか」。申請手続きは、手慣れたものだった。アジアに友好的な航空会社を増やしたかったから、要請に応じることにした。それを伝えるため、彼らが滞在していた都内のホテルへ赴く。
そこで、大歓待を受けた。次から次へ、2時間近く「乾杯」が続く。社内でも「酒は、とにかく強い」と言われてきた。前社長の山元峯生氏も、強い。2人で飲むと、どちらも「もう、帰ろう」と言わないから、いつも夜中の2時、3時になる。そんなふうだから、ホテルの乾杯続きにも、躊躇はなかった。
だが、気がつくと、本社へ帰る道筋で、警官に揺り起こされていた。食べたものを、戻しもした。飲んで吐いたのは、後にも先にもそのとき限り。「ダイヤ屋」は、出張も少なくない。地方に空港ができるときや便を増減するとき、県知事ら地元との折衝に行く。新路線を張りに行くときは、地酒がおいしく飲めるが、減便のときは苦い酒となる。でも、台湾の人たちとの酒は、辛い思いはしたが、苦くはなかった。