設計屋でも「利益」を念頭に

<strong>近藤史朗</strong>●こんどう・しろう<br>1949年、新潟県生まれ。新潟県立柏崎高等学校、新潟大学工学部卒業後、73年リコー入社。2000年執行役員、02年上席執行役員、03年常務取締役、04年MFP事業本部長、05年取締役専務執行役員を経て、07年より代表取締役社長執行役員。
リコー社長 近藤史朗●こんどう・しろう
1949年、新潟県生まれ。新潟県立柏崎高等学校、新潟大学工学部卒業後、73年リコー入社。2000年執行役員、02年上席執行役員、03年常務取締役、04年MFP事業本部長、05年取締役専務執行役員を経て、07年より代表取締役社長執行役員。

96年12月、チームリーダーとして推進した大プロジェクトが仕上がった直後に、プロジェクトを支えてくれた2人の部下が退職した。近藤流の強引な開発手法に反発し、会社を去っていく――みんなが、そう受け止めた。実際には別の理由もあったのだが、経験のないほどの衝撃を受ける。47歳のときだった。

その1年8カ月前、東京・大森事業所に40数人の技術者らが集結した。初のデジタル複写機を開発するチームの発足だ。入社して22年、ずっとファクシミリの開発・設計を続けてきた。それが、なぜか、社運をかけた複写機の開発を任された。ナンバー2は、これも、複写機とは縁のない電子機器部門の出身者。だから、退社した複写機部門育ちのサブリーダーら2人は、まさに部隊長として力を尽くしてくれた「戦友」だ、と思っていた。

そんな部下たちに辞められた。こういうことは、そう多くの人が経験はしない。どんな思いだったのか。

たしかに、近藤流は型破り。「ルールを変えよう」が口癖だ。それだけではない。少しでも可能性があれば、次から次へと宿題を出し、チームの面々を、極限近くまで追い詰めた。際立ったのが、コスト削減だ。

部下たちは、よく覚えている。「近藤さんには、設計屋らしい技術へのこだわりが、あまりない。新製品の構想段階から『どう売って、どう儲けるか』を考えていた」。30代の前半、初めてリーダーとして設計を手がけた普通紙ファクスが、売れずに終わる。悔しさが、強烈に残った。以来、「利益が出ないのは事業ではない」が信条となる。

だから、デジタル複写機の開発でも、技術者たちに「設計者は、自分で図面を書いた製品が、いくらでできるか、わからなくてはいけない」と説き、簡単な見積もりツールをつくって、自らチェックさせた。リコーでは、前例のない手法だ。

専門外の電子回路選考会議に割り込んで、最先端のメモリーを使うように指示を出す。自社製の部品にこだわらず、いいものが安く手に入らないか、世界中を探させる。いまでは普通になったアウトソーシングだが、自前主義が当たり前だった社内はざわめき、上司が雷を落とした。

生産拠点選びでも同じ。海外を考えた。中国が難しいと知ると、米国の西海岸を歩いて候補地を探す。まだ連結決算の時代ではなく、上司たちは「日本でつくり、日本で売らないと、自分たちの売り上げにならない」と難色を示した。でも、「会社は一つ。どこでつくろうが、最後は会社の利益になる」と言い返す。

そんななか、「プラザ合意」に端を発した円高が急進する。日本製品の価格競争力は大きく低下し、「いかに安くつくるか」は、全社の命題となった。近藤流の先見性が勝つ。

勤務時間を無視し、仕事の区切りがつかないと、いつまでも続け、最後は泊まり込む。部下たちも、帰れない。みんなで、作業場や会議室に椅子を並べ、その上に横になる。椅子が足りなければ、床に段ボール紙を敷いて寝た。これも、近藤流。「鞠躬尽力、死而後已」(鞠躬(きっきゅう)尽力、死してのち已(や)まん)――任務に対しては全力を尽くし、倒れるまでやめない。『三国志』の主役の一人である諸葛孔明が、仕えた劉備の子・劉禅に伝えた決意表明の言葉だ。近藤流も、企業本来の目的追求や合理性を掲げ、孔明と同じ「全力傾注」だった。だが、それは、社内ではなかなか理解を得ない。部下たちも、同化まではしきれない。

でも、「ADAM」と呼んだデジタル複写機の新製品は、売れた。ライバルメーカーに後れをとることもなく、ドル箱商品に育つ。退社した1人は「事業というのは、ああやって立ち上げるのか」と得心した。いま、社内の誰もが「あのときのデジタル化がうまくいかなかったら、リコーは大変だった。生き残れなかったかもしれない」とうなずく。

実は、2人の部下の退社は、応えた。ワーカホリックな仕事の進め方をしていたのは、たしかだ。責任を感じ、2人を訪ね、会社へ戻る気がないか尋ねた。だが、否定される。でも、退社した2人との縁は、切れていない。1人は、別のプリンター関連会社で勤めているが、リコーの株主で、株主総会に顔を出す。もう1人は、1年余り後に復社した。辞めた後、たまに携帯電話へかけて近況を聞いていた。98年春、「プリンター事業を立ち上げる。手伝ってくれよ」と言うと、やっと応じてくれた。リコーでは、再入社は「御法度」とされていたが、「ルールを変えよう」は得意技だ。