躊躇する上司と挑戦しない部下

<strong>芦田昭充</strong>●あしだ・あきみつ<br>1943年、島根県生まれ。67年京都大学教育学部卒業、大阪商船三井船舶(現商船三井)入社。93年欧州・大洋州部長、95年定航一部長、96年取締役企画部長、98年常務、2000年専務、03年副社長。04年より現職。07年から経済同友会副代表幹事も務める。
商船三井社長 芦田昭充●あしだ・あきみつ
1943年、島根県生まれ。67年京都大学教育学部卒業、大阪商船三井船舶(現商船三井)入社。93年欧州・大洋州部長、95年定航一部長、96年取締役企画部長、98年常務、2000年専務、03年副社長。04年より現職。07年から経済同友会副代表幹事も務める。

85年5月、定期船部門の欧州一課長となる。42歳。紅海からスエズ運河、地中海を抜けて行く欧州航路のコンテナ船のうち、英仏独など大半の港を受け持つ、由緒ある部署のキーマンだった。

連日、部下たちを、がんがん鍛えた。「怖い上司だった」。当時の部下たちが、口を揃える。自分でも、そうだろうな、と思う。別に、課長になって張り切ったわけではない。直球型で、何でも、ズバリと言う。「会社を強くしたい」。一途に、そう思っていたが、当時、会社全体が何か、ふわっ、としていたからだ。

商船三井は、64年に業界2位の大阪商船と3位の三井船舶が合併して生まれた。社内の各部には、合併した両社の出身者を互い違いに組み合わせた部長と副部長がいて、中枢の企画部と人事部だけは、ときの部長の系統ですべて押さえる。そんな合併会社によくある姿がいつまでも残り、何かと摩擦が続いていた。

幹部には、なかなか教養のある人がいた、と思う。だが、それが行動力に結びつかない。教養が邪魔をするのか、何でも躊躇する。そんな雰囲気だけに、世界中の拠点から流れてくるテレックスも、「いま、大勢はこうです」といった表面的な報告が目立った。部下が上げてくる提案書も、体裁はよくても内容に訴えるものがない。「こいつら、雰囲気に毒されている。若いのだから、『こうやるべきだ』とズバッと書いてこい」。カッとなって、そう叱った。

課長になって4カ月後、日米英仏独5カ国の蔵相が「プラザ合意」を発表し、円高・ドル安が一気に進んだ。世界の海運界はドル建ての取引が中心で、痛撃された。日本の成長を支えてきた輸出メーカーも価格競争力の急落に遭い、円高差損を避けるため、次々に海外へ工場を展開した。日本から部品や半完成品が、どんどん船積みされる。だが、その受注が、思うほど獲れない。業界首位だった日本郵船との間に、営業力で差があっただけではない。メーカーの海外転進を追って、船腹量を思い切って増やす決断力もなかった。

焦燥感が、ますます「怖い上司」にさせた。ただ、怒っているだけでは、何も進まない。そこで、自ら提案書を書いてみせる。例えば、欧州航路にコンテナを3000個も積む大型貨物船の投入案。「パナマ運河を通れないような大きな船は、世界を巡る定期航路には無理」というのが、当時の世界の業界常識だった。当然、部内も「そんな大きな船を造っても、フル稼働させることは難しい」と受け止めた。

でも、止まらない。数字好きで、何事も分析するのが得手だった。すでに世界の貨物需要動向を分析し、「グローバル化の進展」の答えを出していた。日本発・日本着の貨物だけでなく、「外・外」の需要も大幅に増える――分析の結果を説明し、部下たちの頭に染み込ませていく。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」――太平洋戦争時の連合艦隊司令官・山本五十六元帥の言葉だ。軍隊では、兵器の扱いや作戦をのみ込まないまま戦闘に入れば、自分ばかりか、部隊全員の命まで危機に陥れてしまう。だから、リーダーは、自らやるべきことをやってみせ、部下にその意味を説き、各自に体験させてみることが大事だ、と説く。

芦田さんは、両親とも教師という家庭で育ち、京大教育学部で学んだが、山本五十六の「教育論」は知らなかった。のちに本で読んで好きになったが、率先垂範が身についたのは、動かない先輩たちという「反面教師」がたくさんいたからだろう。

コンテナ積載数を大幅に増やした船は、成功した。欧州航路では、日本郵船を含む日英独の5社で「トリオ」と呼ぶ提携を結び、長らく貨物量のシェアが固定されていた。いくら積み荷を増やしたくても無理益を高めるには、コストを下げるしかない。合理化策の一つが、貨物船の大型化だった。