新ブランド失敗失意の左遷

<strong>前田新造●まえだ・しんぞう</strong><br>1947年、大阪府生まれ。70年慶應義塾大学文学部社会学科卒業後、資生堂に入社。資生堂大阪中央販売に配属され、大阪市で勤務。八九年経営企画部課長、九六年化粧品企画部長、97年アジアパシフィック地域本部長、2003年取締役経営企画室長(現経営企画部長)、05年から現職。
資生堂社長 前田新造●まえだ・しんぞう
1947年、大阪府生まれ。70年慶應義塾大学文学部社会学科卒業後、資生堂に入社。資生堂大阪中央販売に配属され、大阪市で勤務。八九年経営企画部課長、九六年化粧品企画部長、97年アジアパシフィック地域本部長、2003年取締役経営企画室長(現経営企画部長)、05年から現職。

42歳のときに、大きな挫折を経験した。自ら立案した独立ブランドの化粧品が売れず、左遷された。

その4年前の1985年、本社のデパート部から、新設されたブランド開発チームへ参加する。当時、米大手化粧品が皮膚医学の観点から生み出した独立ブランドのスキンケアが、各地のデパートで好評を博していた。「化粧品を科学する」というコンセプトと、「無香料でアレルギーテスト済み」という謳い文句が、高まりつつあった消費者の「安全・安心」への意識と合致した。資生堂も、デパートごとにみると、売り上げが抜かれるケースが続いた。

その化粧品の売り場は、ステンレスとガラスでできていて、清潔感があり、美容部員は看護婦のように白衣を着ていた。当時の日本勢のように「化粧水をつけ、乳液をつけ、クリームをつけて」という「足し算」の手法ではなく、「肌には、生まれながらの力がある。だから、汚れなどいろいろなものを取り去っていき、その力を引き出せばいい」と「引き算」を強調。肌の診断をコンピューターでやり、個々人のデータによって使い方を勧めていた。

販売第一線のデパート部にいただけに、新鮮さとともに脅威を感じ、機会がある度に「われわれも『資生堂』というブランドで単一の価値観を提供するだけでなく、複数ブランドによる『グループ』で成長を目指すべきだ。資生堂の名を付けないブランドをつくろう」と主張した。だが、従来型の販売手法で成功体験を持つ面々は、そんな新しい波に関心もみせない。それでも、繰り返し訴えているうちに、トップが頷いた。

チームは、5人で立ち上げた。つくりたかったのは、お客一人ひとりの「レシピ」にもとづく相談販売向けの新ブランド。化粧品は一見、多数の塊を対象にしているようだが、使う側のお客からみれば、すべて個別のニーズがある。しかも、それぞれには多様なTPOもある。太陽の下か室内か。パーティーの会場か小さなレストランか。TPO次第で、化粧品の選び方、使い方が変わって当然だ。「十人十色」を超えた「一人十色」が、目指す道だった。

勉強に、都内の東急ハンズへ行ってみた。家庭で必要な様々な用具をそろえている。だが、売り場に「売る人」はいない。でも、相談すればいろいろと「教えてくれる人」「手助けしてくれる人」はいる。包丁ならば、使い手ごとに合うように、どの長さや重さがいいのか持たせてみて、どこまで刃を出しておくのがいいか調整し、そのうえで「じゃあ、レジはあちらです。どうぞ」という具合だ。自分が目指していたところと、共通点が多かった。

東京・青山の高級スーパー紀ノ国屋ものぞいた。すると、オレンジ一つとっても、熟れ方、色、形、質などいろいろで、均一ではない。間口は狭くても、奥行きがある。ここでも、ヒントを得た。

新ブランドのコンセプトは「紀ノ国屋・ハンズ」だった。だが、上層部は取り合わない。「うちにも、安全性を追求した品はある。それで戦えないのは、お前たちがだらしないからだ」とにべもない。

当時、横浜に住んでいた。銀座の本社に、東海道線や横須賀線で通っていた。車窓からみえる広告塔は、同じようにみえても、多彩だ。「新ブランドを、どう差別化するか」と考え込む。寝るときも、思い浮かんだことを枕元に置いたメモ用紙に書き留める。気晴らしにプールへ行って、泳いでいるときも、仕事のことを考えてしまう。そんな日々が、約半年つづく。いまでは、そこまでのことはない。仕事と生活を、かなり切り分けられるようになった。でも、ビジネスパーソンの人生には、40代前半くらいに、そういうことが必ずある、と思う。「ワークライフバランス」が大事だが、それを超えざるを得ない一瞬もある。

悩みつづけていた間に、ライバルの脅威が上層部にも浸透したのだろうか、8度目に書いた提案書が通った。内容は、実は、最初に書いたものとほぼ同じだった。