藤原道長はなぜ権力を得ることができたのか。立命館アジア太平洋大学前学長・名誉教授の出口治明さんは「藤原氏はほかの氏族を蹴落としきると、身内のなかで容赦なく叩きあった。藤原家バトルロワイヤルで勝利するためには、3つの条件をクリアする必要があった」という――。

※本稿は、出口治明『一気読み日本史』(日経BP)の一部を再編集したものです。

晴れた夜空の月
写真=iStock.com/kyoshino
※写真はイメージです

開発バブルと地方富豪層の誕生

地方の行政は、大宝律令に基づいてなされていました。持統天皇のブレーンだった藤原不比等がつくったものです。

大宝律令の下では、公地公民制で、班田収授が行われていました。公地公民も班田収授も、乙巳の変(大化の改新)の後に出された「改新の詔」からある考え方であり、仕組みです。

公地公民とは、「土地や人民は、国家のものであって、王様(天皇)や豪族・貴族の私物やないんやで」ということです。だから、王様や豪族の土地は全部、いったん召し上げます。これらを公有の土地として、人民に再分配するのが、班田収授の仕組みです。その代わりに、人民は租庸調といった税を納めます。しかし、これらは建前であって、徹底されず、実際には、天皇や豪族・貴族の私有地が併存していました。

公地公民制は、土地を公平に分けますが、「死んだら没収やで」という共産主義のような一面もありました。それでは、頑張って土地を耕す意欲が湧きませんよね。そのため、「開発した土地は、自分のものにしてええで」という法律が、奈良時代から出されています。それが、三世一身法や墾田永年私財法です。

すると、開発バブルが起こりました。そして、富豪が生まれます。そのなかには、事業意欲の高かった農民もいましたが、国司や郡司といった役人が、農場を経営するケースもありました。国司とは、中央から派遣された役人。郡司とは、国司の下で働く役人で、地方の豪族たちです。国司のなかには、地方の豪族と姻戚関係を結び、京都に戻らず、土着する人たちもいて、地方で富豪層を形成していきました。

京都を離れたくない役人が出てくる

平安時代に入るころから、国司のなかに「俺は、京都が好きやから、地方になんて行かへんで」という人が出てきます。

現地での徴税などの仕事は、ほかの人たちに任せるのですが、なかでも中央政府への税の納入責任を負った人を、受領と呼ぶようになりました。徴税は大事な仕事ですから、やがて受領に、裁判などの権限も集中させるようになります。「何をしてもええから、しっかり税を納めるんやで」と。

受領たちは、富豪層が台頭する地方の実態を見て、「班田収授は、もう無理や」と、考えます。そこで、公有の田んぼを名田として、その経営を、富豪層たちに請け負わせます。そして、負名という名の納税責任者にしました。はじめは「公有の土地」の「経営」を請け負わせただけでしたが、そのうち、実質的に所有する負名が現れ、名主と呼ばれるようになっていきます。