※本稿は、出口治明『一気読み日本史』(日経BP)の一部を再編集したものです。
本能寺の大問題は「信長の跡取り」が死んだこと
織田信長は1582年6月、部下の明智光秀の軍勢に襲われて、生涯を終えます。本能寺の変ですね。
本能寺の変については、黒幕がいたとか、さまざまな陰謀論が唱えられていますが、実際には黒幕がいなかったことは、ほぼ実証されています。
部下の謀反は、下剋上の戦国時代においては世の常で、光秀もまた、この時代のプレイヤーだったのです。あの信長が、側近だけを連れて京都の本能寺にいる。その近くを、自分は1万3000人もの精鋭の兵を率いて行軍している。これは、ポーカーでいうところのロイヤルストレートフラッシュではないか。今、このチャンスをつかみさえすれば、などと考えたのではないかと想像します。
信長の享年は49。今川義元を破った桶狭間の戦いから22年、足利義昭との上洛から14年で終えた生涯でした。
本能寺の変で、織田家が窮地に陥ったのは、織田信長が死んだことばかりが理由ではありません。嫡男の織田信忠も死んでしまったことが手痛かったのです。信長はすでに、信忠に家督を譲っていましたよね。信忠は優秀でしたから、死んだのが信長だけなら、織田家の継承はそれほど難しくなかったはずです。
あの手この手で家康を説得し、秀吉は覇権を確立
クーデタを成功させた明智光秀は、その後、結局、何もできませんでした。その間に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、備中(岡山西部)の高松城で対峙していた毛利氏の軍勢と上手に和睦して、いわゆる「中国大返し」で大軍を走らせ、山崎の戦いで光秀を破りました。
その直後に信長の重臣たちが集まった清須会議に、秀吉は信忠の3歳の子を抱いて登場します。そして、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が跡目相続を争っている隙に主導権を握ってしまいました。
その後、信孝と組んだ柴田勝家を、1583年、賤ヶ岳の戦いで滅ぼし、翌1584年、小牧・長久手の戦いで、徳川家康と組んだ信雄を懲らしめます。
小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉は徳川家康を臣従させます。秀吉は「信長の部下」で家康は「信長の同盟者」ですから、家康が秀吉の家臣になるのは、理屈の上ではおかしいのですが、家康も実力の差を認めたのでしょう。とはいえ、秀吉も家康に妹を嫁がせたり、母を人質に出したり、説得には苦労しています。ともあれ、これで秀吉の覇権が確立しました。

