部長に直訴「仕事を下さい」
86年、新ブランドに『イプサ』と命名し、それを扱う別会社を設立した。39歳。「ここで、骨を埋めてもいい」と、勇んで出向した。だが、売れ行きは計画を下回り、3年後だった黒字化の目標をずるずると書き換える。横並びの文化が色濃く残っていた日本で「自分だけ違う世界」へまで踏み込むお客は、まだ多くなかった。本社へ出向き、書き換えた計画を説明していたら、後ろの席から「何をやっているんだ。約束違反だ、リストラしろ」との声が飛んだ。結局、「本部の人数を思いっ切り絞れ。管理職が5、6人もいるのは、おかしい。少なくとも2人は飛ばせ」と決まる。その2人のうちの1人が、自分だった。
89年12月、本社の経営企画部へ戻る。中枢部門だが、部下もいないスタッフ課長だ。仕事はない。部長は「ほかの人の仕事を、よくみておきなさい」と言う。「左遷だ」と思った。定時出勤、定時退社の日々。みんなが仕事をしているのに、「じゃあ、お先に」というのは、辛かった。だんだん心が荒んでいき、ついに「会社を辞めよう」となる。
そんなとき、『イプサ』の開発時代に側面支援してくれた元上司から電話が入る。誘われて、居酒屋で飲んだ。いい機会だから、「会社を辞めます」と告げようと思っていたら、「おい、辞めるなよ」と先手を打たれた。状況を聞いてくれた後、「それなら、部長に『何か、仕事をくれ』と言ってみろ」と言われた。
離れたところからでも、自分のことをみていて、そこまで考えてくれている人がいたと思うと、うれしくて、吹っ切れた。翌日、部長がトイレへ行くのを追いかけて、「仕事を下さい」と直訴する。返事は「やっと、言ってきたか」だった。
すぐに、経営計画の策定チームへ参加した。厳しい仕事で、徹夜も多かったが、「仕事があることが、こんなに楽しいものか」と痛感する。
「天網恢恢、疎而不失」(天網恢恢(てんもうかいかい)、疎にして失わず)――是非曲直を正すために張り巡らされた天の網は大きくて、編み目が粗いようだが、何一つ逃すことはない。「疎にして漏らさず」とも言うが、意味は同じで、中国の古典『老子』にある言葉だ。「悪事は必ずばれる」という戒めだが、「辛い状況に置かれていても、真面目に取り組んでいれば、お天道様は必ずみている」という、不遇な人への励ましにも使われる。
47年2月、大阪の八尾市で生まれた。慶大文学部で4年生になったとき、大学の就職課へ行ってみた。当時は学生運動が盛んで、騒然とした世相。「平和産業へ就職したい」と考えていた。張り出された一枚の募集通知に、目が止まる。「資生堂 学部問わず」。他社の募集をみると、「経済学部、法学部、商学部」などとあり、自分の文学部は除かれていた。ふと、「資生堂は人を美しくすることが生業。まさに平和産業ではないか」と考え、応募した。
いまでも、元上司と飲んだ夜のことは、克明に覚えている。食べた料理一つ一つまで、浮かんでくる。以来、「あんな上司になりたい」と思ってきた。苦労している社員の話を耳にすると、「ああ、僕もそうだった」と思い、会う機会があれば、体験を話してあげる。会社の中では、誰のことでも、誰かはみている。そのことを、いまの時代、孤独感に包まれがちな若い社員たちに、教えてあげる仕組みが必要だ、と思う。
経営計画の策定などを手がけた後は、順調に「社内階段」を上っていく。96年6月に化粧品企画部長となる。全社でも、有数の花形ポストだ。だが、ここで、もう一度、ビジネス人生の大きな危機を迎えた。
40代が終わる直前だった。