家族と犬を愛す仕事人間

<strong>野副州旦●のぞえ・くにあき</strong><br>1947年、福岡県生まれ。71年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業後、富士通に入社。2001年6月常務理事、05年10月常務、07年6月上席常務、08年4月副社長、08年6月より現職。歴代13人目の社長にして初の海外勤務経験者。89年より米国に駐在し、駐在期間は計約10年。日米貿易摩擦交渉などを担当した。愛犬を連れての毎晩の散歩が日課。
富士通社長
野副州旦
(のぞえ・くにあき)
1947年、福岡県生まれ。71年早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業後、富士通に入社。2001年6月常務理事、05年10月常務、07年6月上席常務、08年4月副社長、08年6月より現職。歴代13人目の社長にして初の海外勤務経験者。89年より米国に駐在し、駐在期間は計約10年。日米貿易摩擦交渉などを担当した。愛犬を連れての毎晩の散歩が日課。

毎朝、2匹の小柄な犬と散歩に出る。「これは、私の義務」と言う。

前回(http://president.jp/articles/-/3578)で触れたように、40代前半に米ワシントンで勤務した。そのとき、妻と長男、長女とともに、飼っていたパグ犬も連れて行く。30歳前後で経験したニューヨーク勤務のときは、意に反した単身赴任。命じた上司は、海外勤務の経験もなく、「奥さんを呼んだら、絶対にダメ。嫌なら、辞めろ」とまで言った。海外生活の苦労などには思いも巡らせぬ、感性に欠けた人だった。

そんな、滅私奉公のようなやり方には、強く反発を感じる。どんなに厳しい仕事でも、楽しみながらやりたい。「頑張る」などという無理やりやるような言葉は、嫌いだ。ニューヨークでは何度か「辞めようか」と思った。だが、思い直す。そういう理由で辞めるのは、仕事から逃げた形になる。

ワシントンへは、当然の家族同伴だった。長女は小学5年生。現地校に通った彼女は、言葉がわからず、学校で黙ってすごす。その分、帰宅すると、パグ犬に話しかけ、散歩に連れて行く。ある日、同級生たちが彼女と犬をみつけて、「わーっ」と言って囲んだ。犬が可愛かったためだろうが、そんなことを重ねるうちに、娘は英語を覚え、友だちが増えていく。登校拒否にもならず、家族がぎすぎすせずに済んだのは、つくづく、パグ犬のおかげだと思う。

その犬が病気になり、車が2台買えるくらいのお金をかけて治療したが、帰国後に死んだ。以来「もう、犬を飼うのはやめる。死んだときに悲しい」と思っていたが、ある日、ペット屋の前を通ると、売れ残っていたフレンチブルがいた。可愛くて、「お前、うちに来る?」と言ってみたら、「来る」と答えた。そんな気がして、買ってしまう。一人暮らしの母にもチワワを買ってあげたら、「全然、鳴かないので気持ち悪い」と連れてきた。2匹には、奥さんが「海」「風」と名付けた。「カイ」「フウ」と読む。

日本で「ライバル企業の情報を集めろ」と言われても、難しくない。でも、言葉も不自由な海外でやれというのは、しんどい。「IBMウオッチャー」だったニューヨークの任務は、無理難題と思えた。でも、やってみれば、わくわくする日々だった。「結局、この仕事は、自分にしかできない」と思えたからだ。ワシントンでも、同じだ。『論語』に、こんな言葉がある。

「三人行、必有我師焉」(三人行けば、必ず我が師有り)――3人で歩いているとすれば、必ず、他の2人から教えられることがある、との意味だ。優れた人がいれば、その良き点を吸収する。何かに欠けた人ならば、それを自分の反省材料とする。つまり、どんな環境や条件の下にいても、自分を磨いてくれる「師」はあり、学ぶことがある。自分が成長しないことを、環境や条件のせいにしてはいけない、との戒めだ。

行き先や任務が何であれ、若いときだけでなく、たとえ40代になってからでも、海外へ出て新しい経験ができる機会があれば、男女を問わず、ぜひ行くべきだと思う。それが「出世コース」から脇道にそれるように思っても、逃してはいけない。

ただ、海外での仕事の面白さも大変さも、すべて、日本にいる上司によって決まる。自分の場合、送り出した上司は、IBMの情報を持つことが社内権勢につながると考えていた。だから、夜中でも電話をかけてきて、「日本で、こんな噂が出ている。すぐに、調べろ。24時間以内に返事をしないと、許さない」などと言ってきた。「何で、こんな人間のために、夜中にたたき起こされなきゃいけないのか」と腹が立った。

だが、ある先輩を思い出す。入社直後、その先輩に言われた。「サラリーマンというのは、必ず上司がいる。その上司が『お前、こうやれ』と命じたとき、『いや、そう言われても、ちょっとできそうもありません』と言えば、済むのか。いや、所詮は、やらされる。どうせやらされるなら、『はい、わかりました』とひとこと言って、その後で考え、悩めばいい」。米国での日々は、これで通した。何事も「誰も経験していないことを、自分にやらせてくれているのだ」「自分にしかできない仕事なのだ」と考えた。そんな思考でいれば、たとえ30代、40代で難関に遭遇しても、乗り切れる。