創業家の三男坊は「お飾りポスト」に

<strong>武田國男</strong>●たけだ・くにお<br>1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家6代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。
武田薬品工業会長 武田國男●たけだ・くにお
1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家6代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。

40歳のときに、武田薬品工業の後継社長候補だった長兄が急死し、7カ月後に会長だった父も亡くなった。前回で触れたように、それがビジネスマンとしての転換点だった。

よく、それまでの会社生活のことを聞かれると「何もしないで、遊んでばかり。ただ漫然と生きていた」と答える。たしかに、終業時間がくるやいなや、さっ、と職場から消えていた。ゴルフの練習場に通い、映画館に籠もり、傍目にも「遊んでばかり」とみえたかもしれない。

だが、実は、頭や心の中まで「遊んでいた」わけではない。上司や同僚の仕事ぶりをみながら、会社の欠陥を見抜き、「自分だったら、こうするのにな」と考え、静かに事業家としての判断力を鍛えてもいた。

「伏久者飛必高」(伏すこと久しき者は、飛ぶこと必ず高し)――長い間、草地にうずくまっていた鳥も、ひとたび飛び立てば、必ず高く舞い上がる。人間も、たとえ陽の当たらない傍流に長くいても、意欲を失わずに力を蓄えておけば、チャンスがきたときに一気に力を発揮できる。中国・明時代に儒教、道教、仏教の教えを融合した洪自誠の『菜さいこんたん根譚』にある、そんな励ましの言葉だ。

いま、日本の職場は内向きの「思考停止」のただ中にある。消費者のニーズが多様化し、個別の商品・サービスでの対応が不可欠になったにもかかわらず、いまや通用しなくなった「大量生産・大量販売」と同じ発想の「マニュアル依存症」が蔓延し、自分の頭で考えることをしない日本人が増えた。人と正面から向き合うと、自らに欠けている点が露呈すると恐れ、隣席の上司や同僚にまでe-メールで報告・連絡・相談をする「会話回避症」も、深刻だ。

多くの若い人が「上司が、自分の力を認めてくれない」と嘆き、「やりたい仕事をやらせてもらえない」とこぼす。だが、自らの行動なくして、自己実現などあり得ない。大切なのは、地味な状況の中にいるときも、考えることを続け、挑戦する気概を失わないことだ。「伏久者飛必高」とは、伏している間に力を蓄えておくことに、核心がある。

武田さんは、73年3月、本流の医薬品事業部に在籍していたとき、真冬の新潟へ営業に出張した。不運にも寒さで風邪をこじらせ、肺炎となって入院。退院すると、傍流の食品事業部長付に配転されていた。

「創業家の三男坊は、傍流で、そっとしていてくれればいい」。周囲はそう考えた。でも、本人は「傍流のところなら、かえって好きなようにできそうだ」と意に介さない。

食品事業は、粗利益が低いうえ、当たるとすぐに真似した商品を出されてしまう。だから、量で一気に勝負しようと考えた。でも、最初はつまずいた。「外食産業に出よう」と考え、上司に「1人ではできないので、誰か下さい」と頼むと、東大出と京大出の社員がやってきた。エリートだったのに、なぜか本流から外れた人たちで「使いにくそうだな」と思う。だが、想像とは違った。外食の何を手がけようかを話し合っているうちに、不思議と波長が合う。2人とも、どこか拗ねたところがあったが、仕事には真剣だった。

東大出の1人が「クレープ店をやりましょう」と発案し、フランチャイズシステム計画をつくり、実験店として六本木交差点の近くに小さな小屋を建てて売ってみた。だが、そうは甘くはない。多数の業者がしのぎを削り合う業界。すぐに2千万円もの赤字が出た。何とか取り返そうと相談していたら、急に横浜の営業所長へ出される。「何かされても厄介だ。お飾りポストに置いておけ」ということだが、これまた、上司らの思惑は外れた。「よーし、営業の現場をよくみてやろう」と気合が入る。37歳になっていた。

横浜で、柑橘ジュース『プラッシー』のてこ入れに、徹底的に米屋を回る。ここで、子どものころからの「鳥好き」が役に立つ。当時、米屋には旦那衆が多く、時間にゆとりもあり、インコや文鳥などを飼うことがブームだった。店へ行くと、1日中、鳥の話ではずんだ。そんな日々を重ねていると、横浜が『プラッシー』の売り上げ日本一となる。

だが、旦那衆は、やはり旦那衆。そんなに一生懸命には売ってくれない。徐々に頭打ちの兆しがみえてきた。そこで、酒屋にもちかけると、店主たちが「いやあ、前から扱いたかったんだ」と喜んだ。出荷量を一気に増やす。ところが、何と、米屋の側からクレームが付く。「米屋以外で売るのは契約違反だ」という。「あんた方が売らないから、酒屋で始めたんです」と反論したが、ラチがあかない。最後は、米の流通団体の責任者に怒鳴り込む。すると、翌週、食品本部から「もう、こっちへ帰ってこい」と告げられた。

わずか1年だったが、現場の実態と残る矛盾を、いくつも知った。