淀みきった会社をどうにかしたい
1983年7月、本社の課長職から米シカゴへ赴任する。43歳。武田薬品工業が米アボット社と設立した合弁会社で、新工場を軌道に乗せる任務を携えていた。
着任して、いきなり「ぎりぎりの選択」に直面する。
工場は、すでにミシガン湖の近くにできていた。感染症用の抗生物質3品目の生産が当局の承認も受け、稼働目前だった。だが、改めて計画を読み直すと、疑念が湧く。
「この計画は、市場予測を徹底的に詰めているのか?」――こういうときの勘には、格別のものがある。
武田からの派遣者の多くは「何をいまさら」と知らん顔だったが、なかに真面目一途な部下がいた。2人で休日にも出社し、抗生物質の市場動向や競争相手の動きを分析。抗生物質の大家を訪ね、意見も聞いた。
出た答えは「NO」だった。よその社から、翌年にもより先を行く競合製品が出る予定だとわかり、巨額の投資額を回収しきれそうもない。急遽、抗生物質はやめて、もう一つの候補だった前立腺がん治療薬の生産に切り替えることにした。前立腺がん治療薬は、米国だけでも高い需要が見込め、武田の「将来」を支えることが期待できた。
だが、当時、抗生物質は欧米勢がこぞって手がけ、「ドル箱」とされていた。本社の面々は、その「目前の利益」ばかりを考え、切り替えに反対する。説得に飛んで帰ったが、外資攻勢にもさらされず、ぬるま湯に浸っていた役員らは聞く耳を持たない。それでも、最後は、武田さんの「大局観」が勝った。
会長だった小西新兵衛さんが、その「大局観」に軍配を上げたのだ。小西さんは、37年間も社長・会長を務めた父の従弟で、後継社長候補だった兄と父が相次いで亡くなった後、武田さんを主要部門で次々に試していた。米国での生産は、社運を左右する大プロジェクトだった。
85年、発売された前立腺がん治療薬は、大成功となる。
いま、世界同時不況の様相に、経営者の悲鳴が続く。だが、自ら事態を切り開く気概もなく、「需給ギャップを埋めてくれ」と政府を頼りにする経営者など、退場すべきだ。
「100年に一度の事態」などと、自らの失政を隠すような元・米中央銀行トップの言葉を追随しているようでは、リーダーとしての矜持はない。過去100年、先人たちは、いま以上の幾多の艱難辛苦に遭遇し、乗り越えてきているのだ。
ただ、「独立自尊」が問われるのは、経営者たちだけではない。企業が「新たな成長の源泉」を掘り起こすには、40代を中心とするミドル層の奮起が欠かせない。その「部課長世代」の活力の差こそ、企業の行く末を左右する。武田さんも、その40代に、「大局観」に立って会社の将来像を描くことを学んだ。
孟子と同時代の儒家・荀子(じゅんし)に「人之患、蔽於一曲而闇於大理」(人の患(うれい)は、一曲に蔽(おお)われ、大理に闇(くら)きにあり)との言葉がある。「人間の欠点は、物事の一面にとらわれ、大局的な判断ができないことにある」という意味で、その欠点を克服するためには「大局観」のある指導者と法による秩序が必要だ、と説く。
武田さんの「大局観」は、子どものときの「鳥好き」と「高いところに登るのが大好き」というところに源流があるようだ。鳥の如く高いところに上がれば、全景がみえる。そして「あそこは変ではないか」「こっちは、どうなっているのだ」と見渡し、全体を最適にするためには何をすべきか、考える。武田流は「鳥の目」に似た手法である。
1940年1月、武田家の三男として生まれた。小さいときから、長兄とは食べる物も着る物も差があった。会社に入っても、兄が父の車で一緒に出勤するのに対し、毎朝、満員電車で押しつぶされていた。そういう落差は、大阪の老舗の商家では当たり前だった。跡取りを明確にして、お家騒動を防ぐ知恵なのだ。
そんな「傍流生活」のなかでも、秘かに「この無気力で淀みきった会社を、どうにかしたい」と考え続けていた。「傍流」だからこそ、汲々とすることもなく、全体像がよくみえた。しがらみもできず、トップに立ったとき、大胆な手も打てた。
長兄が急死し、悲嘆にくれた父までが病死してしまったのは、ちょうど40歳のときだった。父が亡くなる数日前、病院に見舞いに行くと、父の顔が「お前が、兄の代わりに死んでくれればよかったのに」と言っているようにみえた。小さいときから、情に甘えることはできずに育った。むしろ、父や周囲に背中を向けて、目立たぬように生きてきた。冷徹な「鳥の目」は、そんななかで育まれた。病院での父の表情が、それを一段と研ぎ澄ますことになる。