淀みきった会社をどうにかしたい

<strong>武田國男</strong>●たけだ・くにお<br>1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家6代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。
武田薬品工業会長 武田國男●たけだ・くにお
1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家6代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。

1983年7月、本社の課長職から米シカゴへ赴任する。43歳。武田薬品工業が米アボット社と設立した合弁会社で、新工場を軌道に乗せる任務を携えていた。

着任して、いきなり「ぎりぎりの選択」に直面する。

工場は、すでにミシガン湖の近くにできていた。感染症用の抗生物質3品目の生産が当局の承認も受け、稼働目前だった。だが、改めて計画を読み直すと、疑念が湧く。

「この計画は、市場予測を徹底的に詰めているのか?」――こういうときの勘には、格別のものがある。

武田からの派遣者の多くは「何をいまさら」と知らん顔だったが、なかに真面目一途な部下がいた。2人で休日にも出社し、抗生物質の市場動向や競争相手の動きを分析。抗生物質の大家を訪ね、意見も聞いた。

出た答えは「NO」だった。よその社から、翌年にもより先を行く競合製品が出る予定だとわかり、巨額の投資額を回収しきれそうもない。急遽、抗生物質はやめて、もう一つの候補だった前立腺がん治療薬の生産に切り替えることにした。前立腺がん治療薬は、米国だけでも高い需要が見込め、武田の「将来」を支えることが期待できた。

だが、当時、抗生物質は欧米勢がこぞって手がけ、「ドル箱」とされていた。本社の面々は、その「目前の利益」ばかりを考え、切り替えに反対する。説得に飛んで帰ったが、外資攻勢にもさらされず、ぬるま湯に浸っていた役員らは聞く耳を持たない。それでも、最後は、武田さんの「大局観」が勝った。

会長だった小西新兵衛さんが、その「大局観」に軍配を上げたのだ。小西さんは、37年間も社長・会長を務めた父の従弟で、後継社長候補だった兄と父が相次いで亡くなった後、武田さんを主要部門で次々に試していた。米国での生産は、社運を左右する大プロジェクトだった。

85年、発売された前立腺がん治療薬は、大成功となる。

いま、世界同時不況の様相に、経営者の悲鳴が続く。だが、自ら事態を切り開く気概もなく、「需給ギャップを埋めてくれ」と政府を頼りにする経営者など、退場すべきだ。