ベテラン2人に自由な心教わる

部下たち一人ひとりに、「最大の幸福」を実現するチャンスをあげたい。そこまで思う上司は、世の中に多くはないが、いる。きつい近藤流も、別に会社のためだけに貫いたのではない。誰もが、充実したときをすごしてほしい。その思いは、ずっとある。だが、ほとんどの人間は、できれば、きつさは避けたい。

以前、小学校の先生をしていた妻に「人を育てるようと思ったら、もっと褒めなければだめ。教育は、褒めるところから始まるのよ」と言われたことがある。それから、意識して「美点凝視」に努めたが、なかなかうまくできない。30代前半に、何度か部下をおだてながら使ってみたが、むしろ増長させて失敗した。「ああ、これはだめだ。こんなやり方は、誰にでも通じるわけではないな」と思い、40代に入って、再び追い詰め型へ戻っていく。

1949年10月、新潟県柏崎市で生まれた。故郷は北前船が通った港町で、京都からいろいろ文化的なものが入っていた。ただ、住んでいた地域は農山村。まさに、自然の中で育つ。県立柏崎高校から新潟大学工学部の機械工学科へ進んだ。中学時代の同期生が110人いて、そのうち10人しか大学へ進学せず、多くが「金の卵」と呼ばれながら中卒・高卒で就職する時代だった。

73年4月、入社して神奈川県・厚木事業所の電送機器事業部へ配属された。新人時代から「目立つ」「変わり者」「生意気」と評された。リコーの開発部隊では、プロジェクトの節目で内容を披露する「発表会」がある。その発表会で、よく手を上げて、発言する男が出た。近藤さんだ。普通は、みんなで発表者の話を黙って聞くだけで終わる。それなのに、自分の意見をがんがん言った。「手前みそ」のような話を聞くと、黙っていられない。「こんなことを質問したら、何と思われるか?」などと、考えることもない。

でも、それでは摩擦が絶えない。上司から「弾圧」も受けた。そんなとき、ふと足を向けるところがあった。「永久技師長」という称号を得ていた2人のベテランの部屋だ。

1人はカメラの設計者で「天才」と言われていた。部屋へ行くと、よく幾何の問題を解いていて、「やってみろ」と差し出した。頭の訓練をさせていたのか、頭を冷やさせようとしたのか。ぼやいていると、お茶を勧めながら、ぼそっと、「人に何をされたかを数える人生は、寂しい。人に何をしてあげられるかを考える人生でないと、楽しくないよ」と言った。思わず、はっ、とする。

もう1人は「複写機の神様」と言われた人だ。紙ヒコーキが好きで、面白い作品をみせてくれた。心が仕事に縛られない2人のように、自分もなろう。そう思うと、上司との衝突など、つまらないことに思えた。

07年4月、社長に就任した。長い間、どんなことでも「やらない」という言葉は口にしなかった。いつも挑戦、全部をやった。だが、トップに立ったとき、部下に「どこを捨てるか考えろ」との言葉が出た。

何か、変化が起きたのか。起きたとすると、それは何ゆえか――。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)