骨折でみつけた人手の確保策
1995年秋、羽田にある東京空港支店まで、松葉杖を突いて通勤した。休日に、自宅近くで部下の車を呼び止めようと追いかけて転倒。大腿骨が折れた。44歳のときだった。
満員電車に乗るわけにもいかず、みんなより1時間から1時間半遅れて時差出勤を続けた。あるとき、羽田に着いて、気になる光景をみた。十数人の社員が、おしゃべりをしながら食堂へ消えていく。空港が朝、一番込み合うときで、カウンターには、順番を待つお客の列が長い。
「どういうことだ?」
空港支店に着任して数カ月。まだ事情がよくわからない。当時、バブル崩壊後の客足の落ち込みで、94年から3年間、カウンター要員の採用を止めていた。一方で、結婚を機に退職していく女性がまだ多い時代だった。だから彼女たちが所属する旅客部の課長から、何度も、人手不足を訴えられていた。
課長を呼んで、尋ねてみた。「何で、忙しい時間帯に、あんなに大勢が食事に行っているの? 食堂でもぺちゃくちゃしゃべっていて、すぐに職場に戻ろうという雰囲気がないぞ。人手不足と言っていながら、変じゃないか」
カウンター業務は、早番が始発の朝6時より前に配置に付き、交代で朝食に出る。ローテーションを組んでいるから、一時に集中するはずがない。課長は、そう説明した。
別に、詰問調ではない。いつもの穏やかな口調で話を終えた。ただ、その課長は、前号で触れた「ジャンボ機の深夜便」の件で、缶ビールの搭載可能数を間違えて報告し、調べ直して訂正した男だった。だから、同じ間違いをしたくないと思って、確認に走ったらしい。
結果は指摘した通り。ピーク時にもかかわらず、「遅い朝食」へ出ていた人数が14~15人もいた。それが、労使協定にはうたっていないが、ある種の「既得権」になっていた。課長は、すぐにローテーションを見直して、謝罪に現れた。
「やっぱり、そうだろう。ウフフ」
また、深追いはしない。鬼の首をとったような言葉は、口にしない。
「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」(其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じうす:そのえいをくじき、そのふんをとき、そのひかりをやわらげ、そのじんにおなじうす)――『老子』にこんな言葉がある。人生を歩むときは、鋭いところは弱め、もつれた点は解きほぐし、輝くような才能はぼかし、塵と溶け合うように普通の人々と合わせなさい、という教えだ。鋭さを、ひけらかさない。伊東流は、この「和光同塵」そのものと言える。
職場の苦情に妙な同情もみせず、むやみに叱咤激励などもせず。「自分たちで考え、工夫しよう」という企業文化。それを、「和光同塵」で植えつけていく。人手不足を嘆いていた職場に、活気が戻った。「ウフフ」は、伊東流の象徴になる。
羽田では、大きな財産も得た。40歳をはさんで3年間、整備本部にいたとき以来、2度目の現場勤務。「空港は、やっぱり、航空会社の原点だ」。つくづく、そう思った。
お客の満足度は、ほとんどが空港で決まる。サービスが迅速か、行き届いているか、飛行機は定時に離着陸するか。それらをきちんと重ねていくには、華やかにみえる職場でも一人ひとりが地道に努力し、それぞれの分野のプロにならなければならない。パイロットをはじめ、客室乗務員、整備要員、発着係ら運航管理者、そしてカウンター担当者に至るまで、どれ一つ欠けても、飛行機は安全・確実に飛べない。みんなの仕事ぶりを間近にみて、痛感した。
「大切なのは、チームANAだ」
自分がいた空港支店の総務課は、わずか20人の小世帯。でも、世話をする相手は、関連企業を含めて約6000人の大部隊。しかも、職種は多様だ。それぞれが、きちんと機能しているのか。それは「やあ、一杯どう?」と誘い、飲んで何げなく聞く。何かあれば、土曜日に出社し、部屋にこもって対応策を考えた。