低成長を超えるニッチ型大企業
1984年2月、米コネチカット州にある企業の冷却用の軸流ファン事業を買収した。いま27件に達したM&Aの第一号だ。当時、海外でM&Aに乗り出す日本企業は、まだ少なかった。しかも、日本電産の売上高は、わずか数億円の規模。40歳を迎える年の決断、だった。
会社を設立して11年。世の中をみると、ソニーやホンダなど輝きをみせる会社は、すべて戦後の復興期に生まれ、大きく育った会社だ。でも、二度にわたる石油危機を経て低成長時代を迎えたとき、新興勢力がそんな会社に追いつくには、どういう手があるのか、考え抜いてきた。
答えを、ビジネスで何度か訪ねていた米国でみつけた。小さな取引先を訪ねると、いつのまにか大きくなり、立派なビルも建て、社長が「あなたと会う時間がない」などと偉そうに言う。「いったい、何があったのか?」――謎の正体は、M&Aだと知った。「これだ。日本でも、できないか」と、ひらめいた。
米国の投資銀行に頼み、自社の成長に必要な技術を持つ会社を探す。ただ、部下に国際派はゼロ。自ら経営に乗り込んだ。月単位で古いホテルに泊まり込み、態勢を整える。買収先は田舎町。楽しみは、週末に車で出ていったニューヨークで、寿司を頬張り、日本料理を満喫してくることだけ。でも、この買収のおかげで、社名が内外で知られるようになり、人材が集まり始める。「1兆円企業」の夢へ、踏み出していた。
日本電産を、どのような会社にしていくか。明快に決めていた。総合型の大企業は、もう古い。インテルやマイクロソフトのように、何かに特化したニッチ型の大企業にする。核は「回って動くモノ」。すなわちモーター類を中心に、その部品や素材、応用品に集中することだ。M&Aの対象も、そうした分野に絞る。
いま、売上高をみると、自力で成長してきた分とM&Aで加えてきた分が、ちょうど半々だ。ただ、収益では、まだ2対1。売りに出る会社は普通、業績が悪化している。それを再建していくのだから、この比率も仕方ない。でも、それを、改善していくのが、何よりも楽しみだ。根っからの起業家、なのだ。
1944年8月、京都市乙訓郡向日町(現・向日市)で生まれた。兄姉が5人の末っ子。手のひらの生命線がまっすぐ伸びているのをみて、母たちが「大隈重信がそうだったと聞いた」と、重信の名を付ける。実家は農家で請負小作が中心。母は、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働いて、蓄えで近隣の農地を買い増して、最後はかなりの地主となった。M&A好きの血は、この母譲りであることは、間違いない。
小学校4年の理科の授業で、模型のモーターを組み立てた。でき上がると、クラスで一番よく回り、しかも静かだった。珍しく、先生にほめられる。以来、モーターのことが頭から離れない。工業高校の電気科、職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)の電気科と、進路もモーター分野をひと筋。就職も、モーターを手がける会社を選んだ。
2つの会社で計6年働き、73年7月に独立を決意。前の会社で持った自社株が値上がりし、軍資金になる。だが、母が猛反対した。「京都では、お前がつぶれると、お前だけではすまん。親戚から何から全部が連鎖し、弁償せないかん。そんな状況をみるのは、かなわん」と言う。母は70歳に近づいていた。「お前はまだ28歳やないか。そんな無謀なことは、やめとけ。私は、もうすぐ死ぬ。だから、死んでからやってくれ」。そうも説得された。
母は、世界で唯一人「怖い存在」で、その教えは大事にしている。でも、このときだけは、頷かない。母は94歳まで生きた。すぐ死ぬどころではない。亡くなったとき、自分は54歳。言う通りにしていたら、「夢」は実現していない。どうしても創業すると答えたとき、母が言った。「やるなら、人の2倍働くか? 小作やった家が全部、自作農になれた。それは、私が人の倍働いたからだ。お前も、人の倍働くか?それやったら、成功できる」
たしかに、大企業でも零細企業でも、一つだけ共通なものがある。1日24時間という時間だ。戦って勝つには、この平等なものをいかに使うかだ。1日16時間、土曜も日曜も働き、3年やって見通しが立たなかったらやめよう。そう決意した。