グローバル化を創業時から意識
1993年4月、ドイツに欧州日本電産を設立する。米国に始まり、東南アジア、台湾、中国と展開したグローバル化が、一巡した。創業から20年、49歳のときだった。
会社設立時から「グローバル化」は、明確に掲げていた。社名を登記するとき、日本電産の英語表記から「Nidec」と海外向けのブランド名も決めた。「近い将来、必ず、海外でも商売を広げる」。そう決意していた。国内では、電機大手などの「系列取引」という大きな壁があり、新興の零細企業にはなかなか門戸が開かない、と予想したからだ。
73年暮れ、単身、渡米する。ニューヨーク空港から、これはと思う企業に片っ端から電話を入れ、「モーターを売りに来た」と告げる。海をまたいだ「飛び込み営業」だ。ある大手電機メーカーの技術部長が、「来てみなさい」と言ってくれた。すぐに、ミネソタ州へ飛んだ。
技術部長は、教育用の録音ダビング機の小型化を目指していた。日本から持ち込んだ小型モーターのサンプルをみて「これを、もっと小さくできるか?」と尋ねてきた。即座に「3割は小さくできる」と答える。出力や速度を維持し、ノイズやムラを増やさずに、3割小さくする。そう約束して、帰国し、不眠不休で開発に取り組む。7カ月後、試作品を持ち込んだ。相手は「本当にできたのか」と驚いて、1000個も発注してくれた。これを機に、米国に15の販売代理店が生まれる。
翌年、アジアや欧州にも代理店を置く。そして、76年4月、米国日本電産を設立。2年半後、現地生産にも手を伸ばす。創業からわずか5年、「Nidec」の旗が北米にはためいた。
いま、世界38カ所に、生産や販売の拠点を持つ。それに、前号末で触れた「10兆円企業への跳躍台」として買収したヴァレオ社が加わった。ヴァレオ社は、自動車に載せるモーターなどを造っている。製品はハイブリッドエンジン車にも電気自動車にも対応できる。そうしたエコカーの市場は、世界的に急拡大することは確実だ。
エコカー向け部品の調達は、自動車メーカーも「系列取引」だけではもう限界だ。外部調達が増大し始めた。餅は餅屋。「ニッチな分野を深掘りしていく」という日本電産の路線が、モノを言う時代が到来する。
まずは、2012年に車載用モーターで世界シェアトップに立つのが目標だ。その後の「10兆円企業」も、ただの夢では終わらせない。頭の中に、世界中のモーターを手がける主な会社の名は、すべて入っている。新たな買収候補も決めてある。
課題は、買収先の経営だろう。考えておかなければいけないのが、海外の人々の割り切りのよさだ。彼らは、日本人上司の能力に限界をみると、「こいつの下で働いても、将来は開けない」と見切って、辞めていってしまう。だからこそ、日本から力のある人間を送り込まなければならない。それには、ヘッドハンティングを活用する。だから、「あの会社の、どこそこの工場に、誰それといういい人間がいて、会社を辞めそうだ」といった情報には、すごく心が動く。そして、いつも部下たちに言っている。「カネで来るやつは、カネで辞めていく。だから、カネの話を先に出すな。最後にしろ」
エコカー向けの技術開発に、今年5月、長野技術開発センターを近くに移して増強した。11月には、新築の滋賀の技術開発センターも完成する。投資額は計250億円。すべて自己資金だ。不況で建設費が安いいまこそ、一気に進める好機だ。そう判断した。世界のエコカー需要をみながら、ドイツ、中国の大連、タイにも、開発拠点を築く予定だ。そんな大きな「夢」も、世界同時不況の暴風雨から早々と抜け出すことができる、と踏んだからこそ描いた。
「困難は必ず解決策を連れてくる」
誰あろう、自ら考えた言葉だ。困難に遭うと、人は「解決策が別のところにあるのではないか」と、逃げの気持ちに陥ってしまう。でも、世の中、いいことだけが訪れることなど、絶対にない。必ず、悪いこともやってくる。その悪いことにぶつかって壊さないと、いいことも手に入らない。目標を立て、途中でどんなに苦しくなっても「いや、努力すれば、必ずできる」と自らに言い聞かせる。「困難は必ず解決策を連れてくる」。この言葉が、一番好きだ。