規格争いを支えた「自社技術」の自負
1999年春、志願して、他の3社と共同開発していたDVD録画機用の暗号の開発チームに、参加した。暗号は、映画ソフトの複製を防ぐためで、録画機を商品化する際、最大のソフト保有者であるハリウッドの映画会社から「著作権の保護に不可欠」と突きつけられていた課題だ。
少し前に、社内で暗号を担当していた先輩が、亡くなった。その数カ月前、共同開発中の米国2社の名を挙げて、「とにかく、両社との関係を大事にしてくれ」と言われた。それが、遺言のようになる。
すでに、再生プレーヤー用の暗号はできていたが、不正解読が起きていた。「暗号技術の開発がうまくいかないと、製品も出せない。尊敬していた先輩の遺言でもある」と受け止めた。42歳のときだった。
映画会社の面々は、仮に暗号が解かれ映画が複製されても、自分たちに責任がこない仕組みを求めた。反論した部分もあるが、重要な「商売仲間」となるだけに、無視もできない。かなり強い暗号をつくってみせたが、「まだダメだ」を繰り返す。最後は、暗号そのものまで変えさせられそうになり、面会の約束なしでハリウッドへ乗り込み、盟主格の映画会社の幹部を説得する。
英語は、84年2月から2年間の米カリフォルニア大学サンタバーバラ校への留学で、鍛えた。海外で議論に臨んだのは、このときだけではない。暗号技術に同調者を増やしたいから、米欧のパソコンメーカーなどとも重ねた。システム全体を把握し、個別の技術に通じていて、それを英語で説明できる。しかも、議論に強い。プロジェクトリーダーは、そういった条件を考えて、自分を同行者に選んでくれた。
もともと議論好きで、議論する以上は負けたくない。30歳のころ、社内の昇格試験で、試験官を論破したこともある。同じ趣旨の質問を3度も繰り返すので、それぞれ別々の論理で言い返した。にらみ合いになり、脇にいた上司が止めに入る。後で「きみは、ここが何をする場かわかっていない」と言われたが、「いくら試験でも、やっぱり議論に負けたらダメ。自分の論理を主張することが大事だ」との思いは消えない。