米国から帰って5年、ハイビジョンの開発担当になり、劇場向けシステムを手がけた。だが、ハイビジョンの時代はまだ先で、開発センターは解体される。そのころ、社内で技術開発を重ねていたDVDが、事業化の段階にきた。ハイビジョンこそ不発だったが、純粋な技術者から「技術のわかる事業家」への転進は、心中で固まりつつあった。94年春、DVDの世界へと飛ぶ。

受け持ったのは「オーサリング」の開発。DVDは、単にテープから容量の大きいディスクにデータの蓄積を置き換えるのではなく、多様なメニューから機能を選び、対話形式でいろいろできるのが特徴だ。そうした仕掛けがオーサリング。社内にあった大容量データの圧縮技術なども生かし、仕上げていく。

もう一つ、参加して気がついた。重要なDVDディスクの規格が、できていない。どういう素材を、どう加工し、どうデータを配列していくか。そのフォーマットがない。オーサリングを完成させるにも、それが決まらないと、進まない。もちろん、ある電機メーカーと共同開発はしていた。でも、頼りなく感じる。

日欧に、強力な競争相手もいた。連携して別のフォーマットをつくり、世界の標準規格にしようとしていた。実現すれば、巨額の特許使用料が入る。松下にも、比較的いい条件で同調を求めていた。そして、松下には、そういう特許の提供で世界をリードしたことがない。社内では、相手のフォーマットのほうが、容量は小さくてもコストが安いからいい、との考えが有力だった。だが、プロジェクトリーダーも自分も、「自分たちの技術で」と思い定めていた。

「ライバルをたたき、初の特許提供者になる。松下の技術力を世界に知らしめよう」。こういうとき、体中が燃え上がる。徐々にフォーマットづくりにも入り、1年足らずで形にする。実は、映画会社の大半が、2時間を超す作品を楽に収めることができる容量を求めていた。自分たちのフォーマットは、それに応えた。ハリウッド詣でを手伝うと、空気はこちらへ向いていた。