「箱根合宿」で練ったグローバル化対応
1996年6月、「スーパードライ」が国内ビールの月間販売数量で首位に立つ。発売から9年3カ月、アサヒビール再建の大黒柱に育ち、「ガリバー」とまで言われた強力な競争相手に、ついに肩を並べた。広報の立場で、その躍進に知恵を絞り続けた。祝杯を挙げながら、次なる広報戦略に、頭をめぐらせる。
ところが、ほどなく、社長に呼ばれ、経営企画部長への異動を告げられた。労組の書記長から復職して以来13年、「広報ひと筋」で過ごしてきたが、未知の世界へと移る。満48歳になるときだった。
産業界は、連結決算や時価会計を基にした国際会計基準の導入など、グローバル化への対応を迫られていた。バブル崩壊から続くビール市場縮小のなか、どうしても目先の数字を追いがちになっていたが、もうシェア争いだけを考えていればいい時代ではなくなろうとしていた。
だが、経営企画部には、そうした課題に取り組む体制がなかった。経営企画課と経理課があり、前者は経営会議の事務局役、後者はまさに経理だけ。いろいろと「土地勘」を深めたうえで、2年目に改編案をまとめる。経理部門は財務戦略も担う財務部とし、もう一つ、中期経営計画を担う経営戦略部をつくる。新たな歴史への第一歩だった。
9月、自ら初代の経営戦略部長に就き、社内から管理職4人と一般社員4人を指名し、9人のチームを結成する。管理職の3人は、途中入社組。以前の会社で、海外勤務や国際会計などを経験していた面々だ。アサヒも4年前に中国のビール会社へ資本参加し、技術供与を始め、日中合作の製品を発売した。すでにグローバル化の波しぶきを浴びてはいたが、長らく「国内企業」にとどまっていただけに、海外に通じた生え抜き社員は乏しかった。
就任までに、会社がグループとしてやるべきことと、そのために必要なものを、ずらっ、と書き出す。計30頁。写しをチーム全員に渡し、最初の週末に神奈川県・箱根に泊まり込んで議論する、と伝える。
合宿では、当面やるべきことを選び、項目ごとに担当者を決めた。後は、ビールを飲んで自由討議。世間では、合宿はもちろん、社員旅行も嫌う傾向になっていた。かなり体育会的な会社風土ではあったが、みんなも合宿など嫌だったのかもしれない。でも、そんな素振りはみせず、付き合ってくれた。