単に現状を分析し、認識を合わせるだけなら、会社でやってもいい。でも、安定した成長軌道を描くには何を改革すべきか、詰めた話がしたい。最後は、全員が理屈抜きで「わかった、それならみんなでやろう」となるところまでいきたい。それには「合宿」がいい、と判断した。
年末、今度は役員たちが神奈川県・葉山で合宿した。自分も呼ばれ、経営の監督と執行を分離する執行役員制の案を説明した。だが、集中砲火を浴びる。でも、社長が引き取って、翌年の年頭方針に入れてくれ、その次の年に実現した。
グループとして初の中期経営計画も策定し、ヒト・モノ・カネの配分を考えるグループ経営戦略本部を新設、本部長を兼務した。やがて、夢のようなことが起こる。2001年9月、首都圏本部副本部長兼東京支社長となり、入社して30年目で、念願の営業に初めて就いた。
東京支社は、売上高の約1割を稼ぐ最大拠点。「3年はやらせてもらえるだろう」と思い、1年目にまずまずの成績を上げた。すると、会長に「1年目はまぐれ。2年目、3年目になると、ボロが出る。出ないうちに帰ってこい」と言われ、1年半で経営戦略を考える役に戻された。「トップというのは、物の言い方がひどいな」と驚いた。
トップと言えば、広報部以来、4人目の社長になっていた。それぞれに、いろいろと教わった。とくに、2人目の社長は思い出深い。あるとき、一緒に谷川に舟が浮いている水墨画をみていたら、「あの漁師は、舟を前へ漕いでいるか、後ろに下げているか?」と聞かれた。何げなく「それは前でしょう」と答えたら、「お前は逆艪という言葉を知らないのか、覚えておけ」と叱られた。さらに「舟は流れを受けていても、こう漕げば下がる。経営というのも、そのように退くときがある。そういうことも勉強しろ」と説かれた。
いろいろ突っ込まれるので、なるべく会わないようにしていたが、何かの拍子にすれ違うと、「おいっ」と呼び止められた。会うたびに因縁をつけられるような感じもしたが、振り返れば、たいへんな教育を受けていた。既成概念にとらわれず、常に新たな発想で物事を観る。そういう教えが、込められていた。