合宿で議論重ねた会計制度の未来
1987年8月、ロンドンのノムラ・インターナショナルにいた自分を、野村証券本社の2人が訪ねてきた。うち1人は、2年前まで主計部長をしていたときの部下。2人は、秋から子会社群で試行する連結管理会計の説明と、それに反対していた英国人幹部の説得にやってきた。
自分は元来「国内派」で、英語力も不十分だったが、現地法人のナンバーツーとして、その説得を手伝うことになる。まだ、一吉証券(現・いちよし証券)に転じる6年前、44歳のときだった。
管理会計は、経営陣に標準原価や予算の管理状況などを示し、経営判断に役立てるもので、野村本体では10年前から採用していた。だが、業務の国際化が進み、海外拠点も増え、取引規模も大きくなったので、リスク管理には子会社も含めた数字が必要だ、となった。着眼したのがロンドンにきた元部下で、実は、自分が主計部時代に準備を始めた。
財務の実情や健全性をより透明にするため、すべてを連結ベースでみる時代が近づいていたし、海外子会社の実態がみえにくくなっていた。そこで、熱海の保養所に部下たち5人と泊まり込み、勉強会を始めた。
話を聞くと、しごく「当たり前のこと」と映る。元来が「当たり前のことは、当たり前にやる」という性格だったし、入社後の経験が、その思いを強くさせてもいた。ただ、全社の意識はまだそこまではなく、とりあえず、公社債の持ち高と損益計算だけで始めることになる。
ところが、英国法人の幹部が、権限が縮小されると受け止め、反対した。でも、説得は功を奏し、元部下と一杯やることもできた。だが、深夜便できた彼は酔ってしまい、自宅に泊めた。翌朝、妻と娘がドイツのロマンチック街道への旅行から戻ってきた。日本にいたころ、妻には、彼の話をしていた。でも、姓が女性の名前と紛らわしく、女性と思っていたらしい。紹介すると、「何だ、男の人だったの」と驚いた。
主計部には、40代初めの2年半いた。毎年の予算や決算などを手がけ、税や経理などの作業は専門家に任せ、その是非を判断するだけにした。でも、予算でも、難しい場面に直面する。一例が、巨額のシステム開発費。グループ会社に発注していたが、相手は「親会社なのだから、いくらでも払えるだろう」と構え、高額になっていた。費用の大半は人件費なので、要員の表を出させて、経歴をチェックした。
すると、新入社員が3人もいた。まだ証券のこともわかっていない人間の作業は、相手にとってみれば研修と同じ。それなら「そちらで、費用をもちなさい」と言えた。ほかの面々も、経歴次第で半額や3分の1にさせる。それが当たり前、合理的なことだ、と思った。