東京・赤坂に進出「非日常」の場所へ
1996年の大晦日の夜、春に開業した人気商業施設の屋内広場を、訪れた。外食事業を分社化して、JR九州フードサービスを設立。その社長に出向し、始めたオリエンタル料理レストラン「イテキエ」の従業員らが、迎春を控えて賑わう広場に出店していた。
驚いた。店が、お客であふれている。別の直営レストランでアルバイトをしている青年が、帰省していた友人をかき集め、対応している。「こういうことをやってみたい」との意欲を受け止め、当時の会社では例がない試みを、認めてみた。仕事の邪魔にならないように様子をみて、頷き、「ご苦労さん」と声をかけて離れる。
午前2時。青年らが片付けを終えてくるのを、無国籍レストランで待つ。「あれ、社長、まだいたのですか」と、みんなが驚く。一緒にグラスを挙げ、嬉しい思いで帰宅。43歳のときだった。
外食事業と縁ができたのは、その4年近く前。新しい特急列車などを生み出し、博多―長崎のフェリーを就航させていたら、外食事業部次長に発令された。赤字ローカル線が多く、収益確保に苦しむ鉄道事業を支えるために始めた事業が、8億円もの赤字を抱えて、誰も立て直せるとは思ってもいない。でも、全国の主な外食チェーンをみて回り、関連する本を読みまくり、「3年で黒字にしましょう」との再建策を出す。
首脳陣は、すべての決断を任せてくれた。外食会社からスカウトした参謀役や現場の意見も聞いたが、店のコンセプトも、店名もメニューも、すべて最後は自分で決める。そして、部長も務めた3年で、黒字化を達成する。
その間に出会ったのが、大晦日に獅子奮迅の働きをした青年だ。「イテキエ」は、鉄道事業にちなんで付けた焼鳥屋の「驛亭」を、逆さまに読んでみた。そこにも、よく応援にきた青年に「うちに入社しないか」と声をかける。いま、フードサービスの取締役で、東京地区の総支配人をしている。