尖閣諸島に関する新聞記事が問題視された
中国当局の締めつけは、2008年ごろから目に見えて厳しくなった。
私は中国へ入るたびに、北京で日本の記者たちと食事の席を設けた。毎日、共同、時事、産経など、論調の左右を問わず、顔なじみの記者ばかり。電話番号を交換し、帰りの日程を伝えておく。
「予定の日に私が戻らなかったら、拘束された可能性がある。報道してかまわない」
2008年夏のある日、私は内モンゴルの郷里から、自治区の首府フフホトへ向かう長距離バスに乗った。高速道路の出口にさしかかったところで、パトカーがバスを停止させた。
来た、と思った。私は携帯電話から記者たちに一斉にメールを送った。〈警察に止められた。明日か明後日には北京に入る予定だ〉と。
バスから降ろされたのは私ひとり。何時何分に高速の出口に着くか、当局は把握していた。私が乗車した時点から、見張られていたのである。
連行されたのは、立派なホテルだった。部屋にはビデオカメラが備えつけてある。取調官たちがぞろぞろと入ってきた。
ボスらしく振る舞うのはモンゴル人。しかし実権を握っているのは脇に控えた漢人だろう、と目星をつけた。取り調べを担当した女性は、内モンゴル大学の日本語学科を出て、日本に数年間留学したという。
「日本でも、先生の書いたものはよく読んでましたよ」
彼女はA4判の分厚いファイルを持参していた。中身は、私が日本の新聞や雑誌に書いた記事のコピー。『世界』に書いた、産経に書いた、『正論』に書いたと、彼女は一つひとつ指摘していった。
とりわけ問題にされたのは、尖閣諸島に関する新聞記事。1950年代に出版された中国の地図に、尖閣諸島が日本側の領土として記されている。私が“動かぬ証拠”と紹介した記事は、中国側にとって許しがたいのだろう。
「日本はうちの縄張りだ」
取り調べの途中、彼女は唐突に言った。
「あなた、私たちを信用してないでしょう」
信用していると答えると、彼女は続けた。
「さっき、メールを送りましたね」
私のヤフーメールも、携帯電話のメールも、すべて傍受されていた。彼女は送信先を一人ずつ挙げてみせた。これは共同通信の記者、これはどこそこの誰それ。記者たちの携帯電話の番号まで、当局は押さえていた。
この日、手錠はかけられなかった。当時はまだ、そこまでの段階ではなかった。
ただし、このときの拘束で、私は当局者からこう告げられた。
「日本にいるから安全だと思わないほうがいい。日本はうちの縄張りだ」
私は「よく存じています」とだけ答えた。
