「侵略を忘れたのか」という中国の切り札

1988年の春、北京第二外国語学院の大学院生だった私は、学部生たちの企業実習に同行し、中国の青海省にあるガラス工場に赴いた。山奥にある核実験場の近くで、日本の大手ガラスメーカーの援助を受け、ビール瓶の工場を建設する計画が進んでいた。学生たちは日本側の通訳を務め、私たちは約3カ月を現地で過ごした。

大学院生のころ、中国の諜報活動を目にしたと語る静岡大学教授の楊海英さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
大学院生のころ、中国の諜報活動を目にしたと語る静岡大学教授の楊海英さん

中国側には、旧満州国で暮らした経験がある漢族の通訳が2人いた。彼らに言わせれば、中国のガラス工場は満州国に比べて100年遅れていた。当時の中国は、ビール瓶すらまともに製造できなかったのである。

窯の設置には、上質の耐火レンガが大量に必要だった。中国には耐火レンガを製造する技術がなく、日本企業に援助を求めた。学生には難しい交渉のため、私が通訳を務めた。

商談の席には、日本側の社長と中国側の工場長に加え、中国共産党の書記が同席していた。中国側はレンガを無償で提供してほしいと求め、日本人の社長は「他社から購入する必要がある」と難色を示した。工場長が企業人として理解を示したところ、共産党の書記がいきなり声を荒らげた。

「あなたたち日本人は戦時中にわが国を侵略したじゃないか!」

仕事には無関係の理不尽な言いがかりである。日本側の社長たちは驚愕して青ざめた。書記は「反省していないのか!」とたたみかけ、返事に窮した社長は目に涙を浮かべて平謝りに謝った。

通訳しながら、私はしだいに腹が立ってきた。ビジネスの交渉に戦時中の話を持ちだすのは卑劣だと思った。

「切り札」が有効に働く瞬間を見た

結局、社長は折れ、日本から大量のレンガを至急船で送るように手配した。2週間ほどで天津港に着き、さらに1週間かけて列車で運ばれてきた。

ところが翌日、中国側は「レンガが割れている」と苦情を申し立てた。前日まで何ごともなかったレンガが、確かに割れていた。中国側は損害賠償を含め、さらに大量の追加を要求した。

「壊したのは彼らでしょう」と私が言っても、社長は「原因を追及したところで、どうしようもない」とあきらめていた。日本から再び大量のレンガが届いた。

1972年の日中国交正常化で、中国は日本への戦時賠償請求を放棄した。美談として語られがちなエピソードだ。しかし私は中国のほうが一枚上手だったと見ている。一時の賠償金より、ODAなどで延々と経済的な支援を引きだすほうがはるかに得するからだ。中国には「侵略を忘れたのか!」という最強のカードがある。ガラス工場の交渉で、私は切り札がみごとに効果をあげる瞬間を目の当たりにした。