1970年代前後は「証言」の時代だった
として、三笠の乗組員たちの記憶・証言をたどり記述していくという試みも、日本海海戦の叙述において実践されています。『坂の上の雲』の陸戦の記述ではみられず、海戦でも、この段階ではじめてなされる叙述の試みとなっています。
こうした証言の採用は、ともすれば〈事実〉の羅列になる戦闘場面に、調査の経緯を入れ込んで語る手法となっています。そして、「証言」は三笠乗組員にとどまらず、「沖ノ島」で日本海海戦を目撃していた人物らまで、ひろがりをみせています。
日本海海戦にみられるこの記述の方法は、『坂の上の雲』が書かれた1970年前後が、「証言」の時代であることを示しています。戦後日本において、1970年前後からは、戦争の証言を書きとめる試みがさかんになっていきますが、司馬の「証言」の採用には、その影響があるように思われます。
司馬にとっては、「国民」の表情を具体的に描き込む作業であったでしょう。そしてこのことは、戦闘を描くときの証言によるリアリティの担保ともなっています。
『竜馬がゆく』から一貫した歴史認識
加えて、日本海海戦の叙述にあたって、司馬は、ロシア海軍の記録係である幕僚セミョーノフ中佐を登場させています。セミョーノフに対し、司馬は、文才がなく粗雑で記録性にも乏しい、と酷評していますが、セミョーノフを登場させることは、戦史を書くという行為の検証の意味合いも込められていると思われます。
そういえば、真之も「戦闘詳報」を書くために、艦橋でノートをとっていることが、書きとめられていました。
いくつかのことを付け加えておきましょう。一つは、司馬が日本海海戦を日本近代の決算として歴史的射程で論じている点です。
「癸丑甲寅以来」
という歴史のエポックの一大完成現象というべきものであった。(8‐93)
ペリーが来航し、「開港」した1853、54年(癸丑・甲寅)を画期として「国際環境の苛烈ななか」へ参入し、その危機意識によって日本に近代国家が成立するというのが、『竜馬がゆく』以来一貫した司馬の近代日本をめぐっての歴史認識です。
日清戦争、とくに日露戦争が「癸丑甲寅以来のエネルギーの頂点」であり、その近代化の総決算として日本海海戦を位置付けます。
